2012年12月16日日曜日

12月16日

昨日、ゆかちゃんと、「モンサントの不自然なたべもの」を観た。
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。

この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。

ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。

ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。

ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。

「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、

世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。

なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。

いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。

「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」

そうそう、まさに、それそれ。

どんなにあいいれない相手の考えにも、

その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。

でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…


などと思いながら、多肉植物の土を買って、帰る。

夜に友人からメール。

ある候補者が当選したので、
それについて、ありがとうと書いてある。

わたしは少し考えて、返信した。

「いえいえ、わたし、あなたのことは友だちだと思ってるけど、それとはべつに、選挙はじぶんの考えをつらぬかせてもらっているので、あしからずよろしくね」

すると、返信がやってきた。

「それでいいんだよ!こちらもつらぬかせてもらうから、覚悟してね」と。

ふむふむ、なんかヘンだけど、こやつとの友情はつづいていくのだな、と思う。

わたしが投票した候補者は、落選したのだった。

買ってきた土で、多肉植物をあたらしい鉢に植えかえた。


2012年10月17日水曜日

10月14日

コミュニケーションってそもそもなにか、っていう話をすっとばすのだけど、
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。

これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。

わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。

投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。

そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。

そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。

@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。

そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。

2012年10月8日月曜日

10月8日

家族や、身近な人物に対する不満というものについて。

他人に不満を抱く時というのはたいていが、自分自身がおもうように生きられていない時だ
という話があって、わたしは全面的にその意見には賛成なのだけれど、
自分自身にたいする不満を他人にすり替える方法しか知らずに生きているひとにたいして
それを指摘すべきだとも思えず、
いらいらをぶつけられてじっとこらえたり、自分の気もちをきりかえることに集中したりしている。
それってどうなんだろう?
不快なら不快を伝えるのが人間らしいやりかただっていう気もしないでもない。
そういう、人によってはあたりまえのようなことにちょくちょくと悩む。

だけれども、
もしもなにか文句をたれるとしたら、いまわたしはこれを言いたいということがひとつある。

それは、
自分を大事にして、自分を喜ばせて、自分をいい気分にさせてあげることのできるのは、
結局自分自身しかいないのだし、
それが自分に責任をもつことでもあり、自分を大切にするということでもあるのであって、
他人が自分の思うようにしてくれなくて自分を気もちよくしてくれない、
ということのみに注目して、不満というきもちの悪い空気を充満させていくことは、
なんて他人に甘えた依存的なやりかたなんだろう、
っていうことだ。

でも、わたしもずうっとそうやって甘えて甘えて、
それが甘えだってことをしらずに生きてきたときがあったのだから、
このほど特につよくつよくそう思うようになったからと言って、
誰かに言えることではないのだった。



2012年9月30日日曜日

9月29日

  先日検査に行ってきた母に、ちょっとした病気が見つかったという。
咄嗟に、わたしのせいも何割かは入っているのだろうな、と思う。

母は苦言をいわなくなったけど。

いろんな意味で期待されてわたしは生まれ、育てられ、
いろんな意味でいま失望されているのを、わたしは知っているからだ。

親だし、子だし、仕方がないことなんだろうとは思う。
仕方がないけど、わたしは母ではないのだった。

期待というものを、(それがあったとしての話だけれど)
ある程度知らんぷりしないと、わたしはいられなくなるから、
少し、知らんぷりして、
そしてできる親孝行というものを考えよう、と思って、
でもまだ感情は追いつかなくて、胸が痛くなったりして、
いつもほどごはんがおいしくなかったのだった。





9月28日

みどりちゃんの住む町へ。
インド料理やさんの、明るい窓辺でランチをたべて、たっぷり2時間くらいくつろぐ。
みどりちゃんは、魔法瓶にお白湯を入れて持ってきていて、紙コップについでくれた。
きちんと20分間沸かされたお白湯だった。

リサイクルショップをのぞいて、ノリタケのめずらしいデミタスカップや、
ソニア・リキエルのちょっとキッチュなブローチが格安価格で置かれているのを発見して驚いたり、
軽い山登りをして、徐々に澄んで濃くなる空気のレイヤーをとおりぬけて、
ぱっと開けたところにある、清荒神さんにお参りしたり、
山をおりて、鯨のようなかたちのカトリック教会にみとれたり、
こじんまりとちょうどいい大きさの街に入って、ふしぎなアートセンターの蔵書をながめたり。

夜は、お風呂やさんへ行った。
みどりちゃんが選んで貸してくれた、生まれてはじめて着る花柄の水着で、
エレベーターで最上階へあがり、
ホテルの屋上のプール(そんなところへ行ったことはないけれど)みたいな露天風呂に浸かって、丸くくり抜かれた打ちっぱなしのコンクリートごしの夜空をながめたり。
丸い形のお風呂、丸く抜かれた天井。
丸いコンクリートの穴と、その向こうがわに広がる濃い夜空の境い目を、
お風呂に浮かびながら見ていると、
浮かんでいながら向こうへ落ちていきそうな、
子どものときによく感じた、あの感じがした。

丸いお風呂から出て、夜風にさらされながら街のあかりのほうへ寄ると見えた、丸い月。
高い場所で、お互いにぬれた水着で、ならんで風にふかれて街や月を見る、へんてこな感覚は、
未来がもっとたのしみになるような気持ちにも、させてくれた。
たっぷりと芯までぬくもって、そのぬくもりがなくならないようにストールを巻いて、
最終電車に乗った。








2012年3月2日金曜日

1月13日

とうとう、完全に、携帯電話がこわれた。
ひとつき以上前から、こわれかけているのをだましだまし使ってきた。
携帯電話をもつのを、もう辞めようかなと思ったりもしていた。

きょう、もう二度と、電源が入らないようになった。
電話のいのちがもえつきるまで使ったような気がして納得し、
観念してお店へむかう。

お店で、あたらしい電話について、
まずどんな手続きをして電話帳をとりこんで、とか、
いろんな面倒そうな話をきく。
ひとりで実行する時にぜったい思い出せなくなりそうな操作があったから、
しつこいとおもうぐらい店員さんにたしかめておく。

「だって、このくらい分からないひとだっているもん」とひらきなおって、
わかるまでしつこくきいておこうって思ったのだった。

そうして黒い分厚い電話をお店のひとに渡して、
あたらしい白い電話をうけとったのだった。
いままでとはぜんぜん、てのひらにうけるおおきさも、重みも、温度も、ちがう。

電話を変える手続きはだいきらい。
でも、新しい電話は、やっぱりとても便利なものだってことを、知ってしまった。
電話がかわるときって、ちょっと、自分のなかでひとつの長い季節がおわった気分になる。

1月12日

仕事をしながら、社長といろいろ話す。
社長は厄年のときに会社を設立したのだそうだ。
「わたしは、厄年っていうのは、わるいことがおこる年っていうふうにはおもってなくて、
何か越えるべきものを越える年っていう感じでとらえてて。
会社を作ったとき、厄年だっていうのは知らなかったんだけど、
でも、やっぱり、ほんとうにその年はしんどかったのね。
あとになって、いちばんしんどいときにあれだけ頑張れたっていうことがわかって、
それはすごく自信になったの」

わたしは、そういう話をきいているのがとても好きだ。
だって、ほんとうに社長はそうやって、ここまでやってきたんだもの。
目の前にあることを、ああでもない、こうでもない、こうしてみたらどうだろう?って、
いちから自分で考えて、一個ずつたしかめて。

だけどそれって、きくとやるじゃ、大違い。
仕事中のわたしは、いつも不安におののいている。
いつだってはじめてのことと答えのないことばかりで、
絶対だいじょうぶなことなんて、なにひとつないんだもの。
おののきながら、一歩ずつ、吊り橋をわたるような気持ちで、いつも、いる。
社長もこんなときがあったのかなあ、とおもいながら。

1月11日

ろくろう君夫妻から年賀状がきている。

鳥の絵と、はっぱのシール、それから、なにかとても、不思議な絵。
黒のほそい線で描かれている。
なんだろう、夢のなかの話のような、
よくわからないけどひとには言っちゃいけない、内緒話なんだな、という感じ。

ふしぎだから、ろくろう君にメッセージをおくってたずねてみた。

わたし  「あの不思議な絵がとても気になって、メッセージをおくってしまいました」
ろくろう君「じつは、ピーコにもらった年賀状に触発されて、二人で一緒に絵を描いてん。
伝わるもんなんやなあ。うれしいわ。」

なにか、黄色い温かい感じが、胸のおくのほうから、じわーっとしみでてきて、
体中をとりかこんでくる。

ろくろう君夫妻とはめったに会わない。
けれど、そんなふうにがつーんと、心と心で握手するようなことが、ごくたまに、おこる。

わたしはときどき、去年の春の展覧会をみてくれたろくろう君が、
握手しよう、と手を差し出してくれたことをおもいだす。
おもいだすとやっぱり、なにか、黄色い温かい感じが、じわーっと出てくる。

1月10日

朝、全身にオイルマッサージを施す。
これは、アーユルヴェーダの健康法。
いったん100℃くらいまで熱して、さました太白ごま油が瓶に保管してある。
それをつかう。

てのひらのくぼみにとうめいな油を受けて、両方のてのひらでこすりあわせ、
すこしずつ、
あたまのさきから、あしのゆびさきまで。
耳のあなとか、鼻のあなにもぬる。
ぬりかたにも、少し、順番やきまりがある。
ときどきまちがえたり、とばしたりする。

油をぬりおわったら、
そのまましばらく、からだをあたたかくして待つ。

ものの本では、このときにオイルが皮膚から骨にまで浸透していくのだということだ。

その後、お風呂に入る。

このマッサージをときどきおこなう。
おこなったあとは、からだのかたくつかれていたところがやわらかくなって、
つかれていたところのまわりの空気に、ぼわーんとなにかがしみだしているみたいになる。
ぼわーんとしたあと、じょじょに軽くなってくる。
はじめてこれをしたときは、ぼわーんどころか、どっすーん、といった感じになってびっくりした。

ものぐさなわたしは、これをするとき、ぜんぜんうきうきしたりはしなくって、
ちょっと億劫にさえおもいながら、ただ淡々とおこなうだけだけど、
おわるといつも、ああよかった、やってよかった、としみじみおもう、
そのくりかえしだ。

2012年2月25日土曜日

1月9日

西宮北口の駅構内を通るのは、震災の直後以来だ。
高校を卒業するまでは毎日乗っていた、この路線。
北といわれれば山を登れば良いのだし、
南といわれれば海へ降りれば良いのだった。
山から海へむかう風にふかれて、白い土ぼこりのつく、黒い革靴。

大学生になって京都へ移り住んだとき、
風が吹かないのがものすごく気持ち悪い と思ったことを思い出す。

坂道を少しのぼって、それからしばらく斜めにくだって、
段差の高い階段を随分と昇ってからやっと、インターホンを押した。

息が切れ、膝に手をついて、呆然とあまりにひらけた景色をみていたら、
ガラス張りの1階へと階段を降りてきたねこさんが、ガラスの扉にかかっている鍵を開ける一部始終がみえる。
「あけまして おめでとうございます」と息をきらしたまま挨拶する。

この、あたらしいふしぎな家を、おそるおそるみせてもらう。
南側は、はるか下方へと、神戸の海が見渡せる。
北側はきりたった雑木林だ。
ひとしきりながめて、「はあ。。。すごいなあ。。。」としか言えないわたし。

「なんか、するって言ってへんかった?」
「うん、持ってきた。やっていい?」
「ええよ」
わたしは四角いテーブルに持ってきたものをどんどん並べていく。
いろいろな色の石と、銀のはりがねと、ペンチが3種類。
それから、石をいれる、三角のちいさい皿。
四角いテーブルいっぱいを占領してしまった。

どこからか黒い四角いエフェクターのケースがでてきて、もうひとつのテーブルがわりになる。
年末年始の話をしながらアップルパイを食べ、お茶をのむ。

その後わたしはアクセサリー作り。ピアスを一組。
ピンクの石と、緑の石をくみあわせる。
ピアスができあがり、つぎはネックレスにとりかかる。
ねこさんは、音楽をかけたり、引っ越しの荷物をかたづけたりしている。
もくもくと作っていたら、すっかり日が暮れていて、
ねこさんが、「暗いやろ」と、あちこちのライトをつけてくれた。

ふと目をあげたら、ちょうどわたしの座っていたところから、真っ正面のガラス越しに、丸いオレンジ色のひかりがみえる。
「あれ、月かな、ライトのうつりこみかな、どっちかな」
「あれは、月やな」
えらく大きな、満月だった。

ネックレスの続きにとりかかっていたら、
流れている音楽にあわせてなんとなく動いていたねこさんの足が、
すうっとうごかなくなった。
眠っていると知ってちょっとびっくりしたけど、気にせずネックレスをつくった。

完成したころ、ねこさんが、夕飯をつくろうかという。
冷蔵庫の中にあるもので、パスタ。
「えっと、何をどうしたらいいんかな。段取り考えるわ」というねこさん。
ねこさんという人は、段取りをかんがえるのがうまい。
いつでもなんでも、段取りというものをかんがえているように、みえる。

どこをどうてつだったらいいのか、よくわからなかったけど、
大根をすりおろしたり、いためるのをてつだったり。

パスタは2種類できて、どちらもおいしかった。


「おとといから1週間、休暇やねん、半年に一回」
「ああ。。。まえの休暇は、7月の終わりだったもんね、もう半年か」
「ようおぼえてるな」
「だってあのとき、レイさんのことがあって、ねこさんに電話かけて。
平日の昼間だったから、てっきり仕事中だと思ったら、寝てた。」
「せやったな。あのとき、電話で何をいわれてるんか、全然わからんかったんは、
寝てたからやったんか、そうじゃなかったんか。。」
「あの日は、誰に電話しても、みんな、何をいわれてるんかわからんという反応だった」
「でも、ようおぼえてんなあ。僕、なんでこんなすぐ、なんでも忘れるんやろ。。」

「そのほうがいいよ。いろんなことおぼえてるとしんどいから、日記書いたりするんだよ」
と言ったら、ねこさんはちょっと笑っていた。

「今年は、良い年になるといいねえ」
「うん。」

テーブルにならべた石をながめる。
とくに理由もなく、ねこさんに「4つえらんで。」と言うと、
ねこさんは、赤い珊瑚と、ラブラドライトと、アマゾナイトと、両剣水晶をえらんだ。
えらびかたが、とてもはやかった。
4種類の石たちをならべて、「きれい。」といいながら、
これは何か、知っている色合いだなという気がしたが、さして気にとめなかった。

夜がふけて、ガラスの家をでた。

帰りの電車の中で、ふっと思い出す。
ねこさんがえらんだあの4種類の石の色は、
お正月にみた夢の中で、わたしが描いていた油絵の色あいとおなじなのだった。
描いていたのは、両剣水晶みたいなかたちの、クリスタルの絵だった。
何か知ってる、とおもったのはそういうわけか、と納得した。

1月8日

今日はわたしのアトリエ部屋の大々的な整理をする。
両親とわたしの3人がかり。
この部屋は、もうひとりの祖母が暮らしていた部屋。
その祖母はまだ生きているけれど、今は、動いたり食べたり話したりすることができない。
見たり聞いたり、わかったりすることがどれくらいできているかは、わからない。
その祖母のもちものをどうこうする・しない ということについて、
この数年、誰もが何も決められなかった。

これまで抵抗を示していた父が口をきって、大きな箪笥とベッドを解体した。
ほんとうに古い箪笥をひとつだけ、のこした。
ひろびろとしたスペースに、わたしのキャンバスなどを収納するように と母が言う。
どんどん、祖母のものではなくなっていく、この部屋。

昼過ぎに、妹があそびにやってきた。
ちょうど今朝、彼女がなくしたといっていた編み物の本がうちで見つかったところ。
妹は、「2001年宇宙の旅」のDVDを貸してくれる。

わたしは、数日前におもいついたあることを、妹にうちあけた。
よき協力者になってくれそうだ。
わたしのこころのなかに芽をだしかけているものが、長い時間をかけてもいい、
ちゃんと育ちますように と願う。

1月7日

きのうの夜のこと。
あかねのはたらいているお店へ行った。
年末の整理で出てきたという、あるものをもらいに。

わたしはごくたまにそこへ行って、ぽつぽつと、自分の買えるものを買う。
あそびにいくだけで、なにも買えない時もよくあって、
それではもうしわけないので、なにかいいことについての情報をもっていくようになってから、
そのお店のひととのあいだではおたがいに、なにかいいことをおしえあうようなサイクルができたのだった。

あかねに貰ったものは、白い、縒られていない、ふとい毛糸が5巻も。
それから、たくさんの紐、白と生成りと、グレーと、群青と、ショッキングピンク。
まえの年末にもわたしは同じ白い毛糸を一巻きもらい、
それで編んでいるものがある。
あたらしくもらった糸を足せば、編み上がるはずだ。
そして余るであろうたくさんの白い糸で、つぎは何を編むんだろう。

あかねに借りていた本を返すと、
「あれっ、ちょうどわたしも、続きを持ってきてたの!」と、続きの本を貸してくれる。

ものと心がいったりきたり。

1月6日

朝から、隣に住んでいる祖母が家の中を大々的に整理しはじめたらしい。
父によばれて、手伝いにいく。

祖母の家は、母が育った家でもある。
祖父が晩年を独りで暮らした家でもある。
そして今は、祖母が独りで暮らしている家だ。

10年前からの3年ほど、わたしもここで祖母と暮らした。
一緒にたべる朝ご飯のトーストとサラダとめだまやきとコーヒーが、
一日のうちでいちばんおいしいと思っていた時期だった。
あの頃、わたしの職場であった施設に通所しているひとたちのことを、
祖母がいつも「あの、あたまのおかしな子ら」と呼ぶので、
そういったことでわたしたちは何度も何度も言いあいをした。
わたしが結婚をしないことについて、祖母はおりにふれ
不幸だ 不幸だ 将来が寂しいにちがいない と言い、
かちんときたわたしは、「じゃあ、お婆ちゃんは幸せだったの?出てったくせに!」と責めては泣かせた。

祖母とのことでいつもまっさきに思い出すのは、朝ご飯のことと、けんかのこと。
それから、わたしが両親と暮らすようになったとき、祖母が泣いてさみしがったこと。

今は、「お隣さん」として暮らしている。

祖母の家に入って、2階で父が解体しているベッドを1階へ降ろすのを手伝う。
古い、大きな時計とか、空っぽの水槽とか、
通信販売で買ったあやしげな健康器具などを捨てるのを手伝う。

「あんたの絵があるねん」と祖母にいわれて見ると、
学生時代に描いたフレスコ画がベッドの裏から出てきた。
一緒に住んでいた頃にわたしが持ってきていたものだ。
すっかり忘れて、学生時代に描いたものは全て捨てたと思い込んでいた。
さて、どうしよう、こんな大きな絵を。
とにかく、自分のアトリエ部屋へ運んだ。

「あと、その椅子な、捨ててほしいねん」と言う祖母。
みるとそれは、介護用のシャワーチェアだ。
たしかこれは何年か前に住宅改修をしたときに、祖母の希望で買いそろえたもの。
「その椅子な、昔、アメやら、向かいの秀くんやらが遊びにきたら座らせようと思って買ってん、子供の椅子やねんわ」
と祖母は言う。
椅子をうらがえすと、確かに介護用品メーカーのシールが貼ってある。

祖母は何度も、子供用の赤い椅子やねん というので、
しかたなくこの椅子も、わたしのアトリエへしまっておいた。

もうこの椅子は、祖母にとっては子供用の赤い椅子なのだ。
そのことについての言い合いは、もう、できない。

祖母の部屋の片付けがすんで、
アトリエ部屋でぽかんと昔の模写をながめた。
「出産の聖母」という、ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵の模写。
とてもへんな絵だ。
なんでいまごろでてきたんだろう と思う。

2012年2月24日金曜日

1月5日

きのうの帰り、わたしはほとんど泣きそうになっていた。
なんというか、たましいの奥のほうでひとと触れあったような感じというか、
いきるためにとても大切な、なにかの素をいっしょにわけあって食べたような、
そんな感じがしたのだ、くるみちゃんと蓮村さんとの昨日のできごとは。

去年も今年も、図らずも、年始にひとと大事な語りあいをしてすごしている。
去年も今年も、図らずも、異なるひとと、3人で語りあっている。

朝起きて、本をよみながら、腰のまわりの筋肉をゆるめたり、
骨盤から脊椎のゆがみをなおしたりしてみたら、
年末からたまっていた、かたまった鈍痛がすうっと軽くなって消えていった。
消えていってみてはじめて、どんなにその痛みが重たいものだったのかがわかった。

軽くなったからだで、仕事はじめ。
仕事はじめに、社長と龍くんと3人で、大阪天満宮へ詣でた。
大阪天満宮へお参りするのは初めて。
黒い背広のひとたちがたくさんだ。
まず社長がお参りをして、
わたしがお参りをして、
さいごに龍くんがお参りをした。
美しくはなやかなお化粧をしたアルバイトの巫女さんたちから、福笹を買った。
美しい3人の巫女さんたちが、社長と龍くんとわたしに、花のような笑顔で
しゃらりんしゃらりん、しゃらりんしゃらりん、と鈴を廻して鳴らしてくれる。

そこから3人でてくてく歩いて会社へもどった。

3人づくしだ。

2012年2月19日日曜日

1月4日

朝、鼻うがいをしたら、奥のほうにたまっていたものがたくさん、ひといきに全部出て、
ああ 幸先がいいなとおもった。

蓮村さんといっしょに、くるみちゃんに会いにいくのだ。
くるみちゃんには、9年ほど前にCDを出版したときにお世話になった。
蓮村さんはその時期、たくさんのチャーミングなレビューを書いてくださった。
月日はながれ、わたしたちはほうぼうへ散り、結婚や出産などを経て(わたし以外は、ということだが)
今日再会する。

蓮村さんの愛娘みくちゃんとともに、話に夢中になって電車を乗り過ごしたりしながら、
なんとかくるみちゃんの待つ駅に着くと、
おもかげかわらない、なつかしい、ねこむすめのようなくるみちゃんが、
細面のきれいな顔した少年と立っていた。

この子が、サクくんなんだ。
こんなに大きくなるまで会えなかった。やっと会えた。
胸がぎゅっとなった。

「いらっしゃい」とほほえむくるみちゃんの、鈴のなるような声。

蓮村さんと、みくちゃんと、くるみちゃんのお手製のおいしい小松菜のポタージュや豆入りのサラダ、
お土産にもっていったオリーブ入りのパンとワイン、
そしてケーキもたべる。
サク君は、ごはんはすませたといって、少しはなれたテーブルでお善哉を食べたりしている。
元気いっぱいで、非常にしぶいお笑いのセンスをもった三歳のみくちゃんとの会話に、
女どうし三人の会話をはさんでおりまぜて、
わたしたちの会合はすすんだ。

二階から走りおりてきたサク君の、「雪降ってる!」の声に、
全員で二階へあがって、グレーの空からおちてくる牡丹雪にしばしみとれる。
「初雪かも」
「初雪だね」

最近ピアノを習いはじめたサク君のキーボードで、
みくちゃんのリクエストの「ゲゲゲの鬼太郎」を弾き、
サク君が今大好きな、タンタンの本をみせてもらったりする。
サク君は、どのシーンがすきか、読み上げて教えてくれた。
わたしもタンタンシリーズは大好きだったので、
一緒にハドック船長のセリフを言ったりしてあそんだ。
少しずつサク君がうちとけてくれるのが、なんだかたまらなくうれしい。

わたしたち三人。
いろいろな事情でいろいろなつらい時期を似た期間にすごしていたことを知る。
そして三人とも、これから新しい場所へじぶんじしんを開いていこうとしていることを、
お互いに感じている。
わたしは、少しはなれたところにいる親友が、最近すばらしいものを書いたことを、
ふたりに話してしまった。
ふたりはとてもおどろき、そして、よろこんでいた。

人をつきうごかして、これをせねば、とおもわせるもの。
ときにそこには恐れや不安がつきまとって、ひとをうごけなくさせるけど、
それをこえて行動したとき、見える世界は少し変わっている。
このごろ、周囲にいるひとたちがどんどんそのようなあゆみかたをしはじめているように
おもえてならない。
そのひとつひとつを、うつくしいとおもう。

遅くまではなしこみ、あわてて帰る。
サク君に「サク君のおかあさんを独占してごめんね。またあそぼう!」
と言ってわかれた。

1月3日

やっと、年賀状をかきはじめる。
書く、というか、描く、が主だ。

色をえらびはじめると、こころがちがうところへうつっていく。
その、ちょっとちがう場所にいるとき、なんだか幸せだ。

なんとなく急に、父との関係をかえようと決心した。

父に、旅行の感想をいろいろとたずねてみる。
わたしが急に自分から話しかけたので、少し驚いていたようだが、
うれしそうに話しはじめて、とまらなかった。

父に対して、どうしてもどうしても向けてしまうことをとめられなかった憎悪、
あれはいったいなんなのだろう。
父という個人に対してだけではない、
なにか、父という存在にいろいろなものを投影させてわきおこる、憎悪の感情、
であるような気がする。
すべて、わたしのなかにある記憶からおこっているんだろう ということだけ、つよく感じていた。

憎悪をひとにむけることで、じぶんを憎んでいく。
それを、どうやってもとめられない、ということが、とても苦しかった。
ここさえ抜けられたら、ほとんどなにもかもがオッケーになるんじゃないかと思うぐらい、
このことは、なんだかおおごとだった。

どういうわけか、今日の朝、すっと抜けられるような気がしたのだ。
そのタイミングがやっと来た、と、なぜか確信した。
なにがどうなっているのかよくわからないけど、
とにかく、そうだったんだ。

1月2日

夢のなかで、油絵を描いた。
イーゼルにキャンバスをたてかけて、
ペインティングナイフをつかって、絵の具をもりあげたり、けずったりしながら。
色と色が、立体的に混ざる。

すこしグレー味かかった水色のような色で、
両剣水晶みたいなかたちのものを描いていた。
濃いブルーがまじったり、あざやかな赤い色がまじったり。

外に出て、首にかけた金の鎖がほどけかけているのをとめなおして、
「おかあさんが死んだことを、最近ついつい忘れているときがある」とともだちに話す。

ともだちとわかれて、日ののぼりはじめた道路を走りはじめたら、
道路の脇には雪がこんもりと積もっていて、
融けかけの雪が、走るわたしの靴にしみこんでくる。
重くなってくる足。
道路の脇に、こんもりと積もっているとおもっていたものは、人の死体で、
まだ少し息のある人が、わたしの足をつかもうとする。
それを振り払って、走っていた。

1月1日

パソコン越しに空のあかるくなるのをみてから、ベッドに入った。
昼過ぎに起きて、かんたんな雑煮をつくる。
できごころで、蕪とにんじんを、星や花や馬のかたちのクッキー型で抜いた。
ちょっと煮過ぎて、蕪の馬がいなくなってしまった。

のこっている蕪とにんじんで中華風のなますをつくる。
柚子の皮をほそくきざんで、のっけておく。
蓮根やごぼうなどの煮物もつくる。

テレビで、中国の少林寺で修行をするわかいお坊さんのドキュメンタリーをみた。
興奮にちかいひきこまれかたをする。
こどものころに最初につよくひかれた職業が修道女か尼僧(職業というのだろうか、?)だったので、
いまでもああいう世界には否応なくひかれてしまう。
ひかれてしまうと同時に、
わざと、そういうふうにならないように抵抗している感じもする。

夕方に両親が帰ってきて、わたしのつくったおかずを全部たべていた。
わたしは、なますを食べずじまいということになった。
2012年だ。

12月31日

音楽をかけて、アクセサリー作りをする。
クロガネさんがくれた、ミックスCDR。
世界各地のめずらしい音楽など、クロガネさんのおきにいりの曲がたくさんはいっている、
とても密度の濃い1枚だ。

わたしはこのごろ、天然石を1種類だけつかったピアスをつくるのにはまっている。
1種類だけつかったピアスを、何種類かつくった。
赤、ピンク、青緑、紫、など。

きのうは、布屋さんで黄色の布を買った。
ちかごろ、黄色という色が気になるので。
すこしだけ青みのはいった黄色が、とくに好きだ。

今日はぜったいこの色 というのが、なんとなくある。
どんなに、作った時に気に入ったものでも、今日はぜったいに身につけたくない、
今日はぜったいこっちの色だ、というのがある。
そして、その日着ている洋服の色がしょっちゅう同じになるともだちが、いる。

たまっていた日記を書いて、年を越した。
今年全部の日記を書き終える事は、できなかった。

12月30日

年末年始のやすみのあいだにしたいと思い描いていることの、
ぜんぶができるだろうとは思っていないけど、
せめて、したいことのうちの一部だけでもいいから行動しようとおもう。

なんというか、この年は、重い鉛のはいったベルトと靴を装着させられたかのように、
こころとからだのうごかない年だった。
プールの中で走るよりもずっと遅くしか走れないで、
どんどんとエネルギーが果てていくような。
その感じがいちばんつよかったのは、
やはり、地震のおこったあの日からの日々。

地のなかへとエネルギーがどんどん飲み込まれて行くような、
重力がいつもよりもとても強く重い感じがして、
数日間、アトリエ部屋にいても、座ったままでうごけなかった。

同時に、自分の中からどんどんと、たまっていたいろいろなものが明るみに出てきたような感じもしている。
世の中でおこっていることも、そんなふうにみている。

まだまだ、わたしのなかには、出て行きたがっている膿みたいなものがある。
わたしはこれまで、そういうものを、出しちゃいけないんだとおもっていた。

あるとき、あるひとが、
「大地はね、そういうものを全部うけとりたがってるんだよ。
どうぶつのおかあさんが、うまれたこどものきたないものをぜんぶ舐めてきれいにしてあげるみたいにね」
っていうのをきいた。ちょっと涙がでた。
その話をきけたのも、今年のことだった。

子どものときから、
「人間は、地球をよごすことしかしないのに、どうして存在するんだろう。人間がいなくなれば、地球も宇宙もよごれないですむのに」と
わたしは思っていた。

いまは、
「どうして」かはうまく言えないけど、
存在をゆるされているんだな、とおもうようになった気がする。

12月29日

昨日から両親は台湾へ旅立った。
朝から糠床をかきまぜる。
大根ののこりを糠にしずめた。

今日で仕事納め。
今年ここではたらきはじめたことは、わたしにとって、ほんとうにたいへんなことだった。
その意味は、まだわたしには、わからない。
わからないけど、なにか、とてもつよいつながりのようなものを感じる。

いつもより少し早くあがらせてもらって、
数日分の朝ごはん用のパンを買い、
心斎橋筋まで少し歩いて、帰った。

数年前までは、年末は大嫌いだった。
家族が家に揃うと、かならず何か不愉快なもめ事がおこるので。
昨年から両親が年末年始を台湾で過ごすようになり、
わたしはひとりしずかに年を越せる。
新しい年のくるのをまつ時間はわたしにとって、たのしみなものに変わった。

12月28日

炎症はまだまだしつこく居座っている。
たぶん、中途半端に薬をつかっているので、
出て行きたくても出て行けなくてうろうろしている感じがする。
こちらとしても、今は出てこないで、とか思っているのだから、しかたがない。

仕事中はまさに、「今は出てこないで」の時間なので、
からだには、ごめん、ごめん と言いながら。

仕事をする時、わたしは、出てきてもらうのをおそれてるんだ、からだの痛みやつらさに。
仕事じゃない時は、出てきても大丈夫なのに。
なんで?
と、こころのどこかで思いながら、年末の仕事をした。

12月27日

年末で、洋裁学校もお休みなので、じっくりと体調を治す。
母にしたことを、じぶんにする。
だけど、なんだろう、
ひとにしてあげるときと、じぶんに対してするときの、
きもちのこめようというか、愛情のかけかたの、このちがいは。

じぶんに対してしているとき、ぜんぜん気持ちがこもってないかも
ということに、はたと気づく。
ちょっとショックだ。

首や肩ががちがちになってくると、
目のまわりもいたくなってくるので、
蒸しタオルを目にあてた。

まぶたがあつくなると、暑い国で暑い日差しを受けているような気分になった。

12月26日

本格的に悪寒がやってきたので、
背中にカイロをはって、仕事をした。
そして、仕事をするために、薬のちからをかりる。
薬を飲むと、体の中がすこしかわいたかんじになって、
とろんと浮いたようなふうになる。
これは、治るというのとはちがうというのを、このごろ感じるようになった。

しかしこの、とろんと浮いた感じ というのはなかなかきもちがよいものでもあって、
これが切れるときがくることを思うと少し憂鬱になったりする。
効果がきれるとほんとうに魔法がとけたように体中だるく痛くなってくる。
治すということとは逆方向をいっている とはわかっていても、
やっぱり頼ってしまうのだ、仕事のときは。

12月25日

新月。
広島は晴れただろうか。
まったくもって、きちんと節目節目に行事のくるひとだな、レイさんは、と、感心する。
冬らしい、りんとした寒さを感じる。

わたしはからだの具合はよくないが、きもちはとてもすっきりしている。
たまっていた何かがどんどん出て行くであろう気配がする。

タツミさんのパーティであかねに会ったときに借りた本を熱心に読んだ。
このタイミングで借りられてとてもよかったなと思う。

母は起きられるようになった。
もうすぐ台湾に旅行するので、その準備をしている。
旅行のたのしみで、すぐに具合がよくなりそうな様子だ。

夜、副鼻腔炎について、アーユルヴェーダ式にはどんなふうに治療するのか、
インターネットでしらべ、なるほどなるほどと深く納得した。

12月24日

朝から、母のぐあいがとてもよくない。
吐き気と頭痛と悪寒がひどいという。
症状をきくと、おそらく副鼻腔炎のようなのだけど、
熱も高く、放ってでかけることはとてもできないと思って、
ねこさんの新居でのパーティはキャンセルさせてもらった。

これでもう、ねこさんからのお誘いを断ったのは2回目だ。
1回目はじぶんの都合で、
 2回目はこのように。
それもまた、気が重い。

副鼻腔炎って、頭痛の中でももっとも不快でつらい頭痛をともなうものだ。
それから、鼻のなかの炎症がなぜか首や肩の筋肉に直結しているという感覚がある。
副鼻腔炎をおこしたときには、首と肩からはじまって全身ががちがちになってしまう。

吐けるだけ吐くようにうながし、
母がゆっくり、どっぷりと、眠れるだけ眠って、目ざめるまでまつ。
食欲がないので、お白湯と、梅醤番茶をもっていく。

父はいろんなものを混ぜこぜにした、しいたけの出汁の雑炊をつくったが、
母は食べられなかった。
なぜ、気分がわるいひとに、いろんなにおいのするようなものを作る気になるのだろう。。。
「食べてみろ!」と怒鳴る父。
なぜ怒鳴るんだろう なぜ押し付けるんだろう。

わたしが扁桃腺をはらして高熱をだしたときに、父がつくったものを思い出す。
ものすごく辛い香辛料をたっぷりつかった、麻婆豆腐。
わたしがたべられないと、父は怒って捨ててしまった。
おもいだすにつけ、疑問と怒りががふつふつとわいてしまう。

しばらくして、母がすこし何かたべたいというので、
やわらかくしたごはんと梅干しだけもっていく。
わたしが用意しているその様子を、ダイニングテーブルからのぞきこんでいる父。
何もいわず、これで、つたわったらいい と念じるわたし。

梅干しはほんのすこしだけたべて、「もういいわ」と母。
湯たんぽの湯を入れ替える。
ボウルにお湯をはり、ユーカリオイルを数滴垂らして、バスタオルとともにもっていく。
ボウルのうえに身をかがめ、あたまのうえからバスタオルをかぶって、蒸気をにがさないようにしながら、
ユーカリオイルの蒸気を鼻から吸いこんでみて、と言った。
「これは、きもちがいいわ」という母。

その後、がちがちに凝り固まっているであろう、首や肩、背中、腰、足先まで、
ゆっくりとほぐしていく。
足裏もきっと、がちがちのはずだ。
「足の裏って、きもちがいいんやね。。。」という母。
少し眠りについたようだった。

夜、わたしも、鼻水がどんどんでてくる。
たぶん、うつったんだ。
マレーシアのみんなが来ている間、家の暖房をかなり長い間つけていたので、
部屋がとても乾燥していたし。

塩むすびと、野菜のポタージュだけ、たべる。
具合がよくないときは、あまり食べない方が、もっているエネルギーを病気の回復のためにまわせる気がして、
そんなふうにしている。
じぶんの部屋で塩むすびをたべ、しじゅう鼻をかみながら、フィギュアスケートをみた。

そのようにしてクリスマス・イブの夜は過ぎた。

12月23日

夕方まえに家を出る。
京都に着いたらもう、あたりは暗がりと化していて、
ああ、これはまた、道にまよってしまうパターンである とあおざめた。
わたしはいわゆる方向音痴で、地図があってもまようときはまよってしまう。

つまり、「地図が読めない女」なのかもしれなくて、
しかし、そういうふうに「女らしさ」が定義されるのがいやで、
じぶんをそういうふうに「女」のカテゴリーにいれられるのもいやだ。
このことに関してはいつも複雑なきもちを抱いている。
そのくせ、ひとりで夜に知らない場所をあるいて、まよったりして、
でも意地でたどりついて、
くたくたに疲れて帰る ということを、たびたびおこなうのだった。

さて、目的地はふたつ。
ひとつは、英子さんがつくっているミラーボールの展覧会場。
民族雑貨などを売っているお店の二階へと木製の階段をみしみしあがっていくと、
まるで屋根裏のひみつの部屋みたいなところで、いくつものミラーボールがゆめゆめしく
光をはなっていた。

ミラーボールにつかわれている鏡はすべて、英子さんの手でひとつひとつカットされている。
その器用さがみためにあらわれている、英子さんの手が好きだ。
いとおしそうにミラーボールを手で回して、ひかりがくるくるうごきまわるのをみつめる英子さん。うれしそう。
ここにこそ、英子さんのいちばんだいじな世界があるんだろうな、って思う。

2つめの目的地までの道を英子さんにおしえてもらったのだけど、
迷ってしまった。
ひとけのないところまで道をゆきすぎて、もう、あたりは漆黒の闇だった。
暗くて、さむくて、もう、かえってしまおうかなと思ったけれど、
やっぱりくやしいからずんずん歩いて引き返した。
こういうときにみつける目的地のあかりというのは、なんでこんなにあったかいのか。

ぶじにゆうこちんの絵をみることができた。
これもまた、料理やさんの二階へ、木製の階段をみしみしとあがっていく。
レイさんのすがたがここかしこにあらわれる。
ゆうこちんの絵は、なんというか、とてもこわい世界と紙一重のところにあるとおもう。
黒いクレヨンや黒い鉛筆だけで描いた絵、
アクリル絵の具を使った絵、
そのどの絵にも、真っ黒な指の跡がいっぱい、いっぱいついている。
描いているときのゆうこちんって、いったいどんな顔してるんだろう、と思う。

お菓子をもらっていっしょにたべながら、いろいろ話をする。
もうすぐ、広島で納骨をするんだということ。
「25日って、クリスマスじゃない。たいへんだね」と言うと
「うん、そうやねん。でも、クリスマスに納骨って、なんかたのしいから、いいねん!」とあかるく笑うゆうこちんだった。

あかねがやってきて、また、3人でお菓子をたべた。
あかねとゆうこちんのお誕生会をしたときのことをおもいだす。
ひるまからあきらの家で、ゆかちゃんやみどりちゃん、はなちゃんと一緒に料理を準備した。
レイさんもゆうこちんとやってきて、つくったジャガイモのグラタンをおいしいといって食べてくれた。
ゆうこちんとあかねに、おそろいの、いろちがいのブレスレットをプレゼントして、
ふたりの写真をとった。
暑い暑い夏だったから、ふたりとも、頬がピンク色にひかって、ちょっとこどもみたいで、
姉妹のようで、かわいかった。

今も、ふたりは姉妹のようにちかしい。

12月22日

彼らが去っていった後のしずけさ。
以前にくらべて、その差が少なくなってきた気がする。
アメもツキも、だんだんと大人にちかづいていくのだということを、
そのことによっても気づかされる。

今回、アメに会っていちばんに思ったのは、顔がかわったということ。
目元にあった険が消えて、目がおおきくぱっちりとした。
そのことを妹に伝えると、彼女も
「うん、私もそう思っててん。性格も、前はもっとぴりぴりしてたけど、
そういうのが無くなった」と言う。

数年前のアメを思い出す。
妹にいわれたことで腹をたてて、
だけどどんな風にそれを表出していいのかわからなくて、
あぶないものをふりまわすしかなかったアメ。

「言葉でいいなさい!」と言ったところで、
その「言葉」は、なかったのだ、あの時の彼の中には。
「人に向かってあぶないものをふりまわすのはルール違反!」と、
持っていたものを厳しくとりあげたら、
泣いて泣いて、胃の中のものをぜんぶ吐いた、アメ。

バイリンガルやトリリンガルの子どものコミュニケーションについて勉強したことがないから、
巷で言われていることは全然しらないけれど、
彼らは、ことばというものの扱い、そしてことばをつかったコミュニケーションというものに、
わたしたちが思っているよりずっとずっと、混乱や苛立ちを感じているような気がする時がある。
両方の親がそれぞれまったく違う言語を話すというのは、
ただことばをおぼえればすむ という問題ではないように感じるから。

今回の滞在中に義弟が撮った、おびただしい数の写真を見た。
ツキとアメと一緒にピアノを弾いていた時の写真があった。
アメが、アメじゃないみたいな顔をして笑っている。
こんな顔して笑うときがあるんだ、と思った。
義弟の、ものごとのいちばんうつくしい瞬間をとらえる才能をかんじる。

12月21日

先日、ツキ(姪、5歳)が写真を撮られる時に"I don't like photo!"と言っていじけていたのを、わたしは知っている。
わたしも、写真を撮られるのはにがて。
こっそりとツキに"I don't like, neither" とささやいた。

今朝、わたしはツキに「しゃしん、とろっか。」と誘った。
誰かと一緒に写真をとろうと誘うことなんてめったにない。
ツキはあっさり「うん!」と言って、一緒に床にねころんだ。

撮れた写真をツキにみせて「オッケー?」とたずねたら
じっと見てから"OK."と言い、
「なんかー、オンナシみたいな かおね」と言う。
「どこがオンナシ?」とたずねると、
「め」と言いながら、彼女は写真のなかの彼女とわたしの目を交互に指差した。


仕事に出る前にわたしのアトリエ部屋で片付けをしているジョビン(義弟)に声をかける。
「もう、出かけなきゃいけないから、お別れを言おうと思って」

Oh, と言って近づいてくるジョビン。
「きてくれてありがとう」
「ありがとう。君のアトリエで泊めてもらってごめんね、ありがとう」
「ううん、散らかっててごめんなさい」
「ちっとも気にならないよ、またマレーシアへおいでね」
「うん、英語勉強するね」
ハグするわたしたち、その間でわたしたちを見上げている、ツキ。

「ほら、シホちゃんにごあいさつしなさい、」と妹に言われて
「バイバイー」とふらふら手を振るアメ(甥、8歳)。
今回もそのようにして皆とわかれた。

このごろ、アメの反抗期のことをしばしば想像するわたし。
あのアメも、そのうち一日4食とか5食とか食べる、
がつがつした男の子になっていくんだろうか??
口をきいてくれなくなるのは何年後ぐらいからなんだろう。
そんなことを。

高校を卒業するまで、同年代の男の子をほとんどみないで育ってきたので、
わたしは、うすぼんやりとしか、想像ができない。

2012年2月18日土曜日

12月20日

みのりちゃんのいる台湾へ、絵を送った。
春にみのりちゃん夫妻がうちに数日滞在したとき、
わたしのアトリエをみてくれて、この絵を気に入ってくれたのだ。

キャンバスをぴったりとくるめるように、段ボール紙を切り、テープでとめていく。
みのりちゃんはどんなお家に住んでいるのだろう。
どんなふうに、お家にかけられるだろう。
どうか、無事につくように。

あのとき、夫婦でわたしの絵をひとつひとつ大事に見てくれたことを思い出す。
あのとき、わたしのアトリエのなかに、ふたりのやさしい温度が充満した。
みのりちゃんがキャンバスをもってこの絵をじっとみつめていたときの、
白いやわらかい手が目に浮かんだ。

夕方、洋裁学校へ行く前に、ひとりでお茶を飲んで、いろいろなことを考えた。
授業が終ってからも、またひとりでお茶を飲みに行って、いろいろなことを考えた。
考えごとをするには、お茶を飲みにいくのがわたしにはいちばん、いい。
まわりにたくさん人がいるにもかかわらず、なぜかはかどるのだった。

2012年2月14日火曜日

12月19日

朝起きて階下へおりると、まだアメもツキもめずらしく眠っていた。
ジョビン(義弟、50歳)がひとりでテーブルについている。
わたしが朝ご飯をたべていると、話しかけてきた。

「君の絵をみたけど、いいね」
彼はわたしのアトリエ部屋で寝泊まりしているのだ。
「ありがとう」
びっくりした。

そして彼は、ビジネスマンとしての見地から、2つ3つの助言をくれた。
とてもうれしい。
そして同じような助言をいままで数人のひとからもらっていることに気がついた。

その後、いろいろとぎこちなくわたしがジョビンと話をしていると、
アメが起きてきてニヤニヤしながら近づいてきた。

大人同士の会話の出来る程の英語をぜんぜんはなせないわたしと、
ジョビンとのコンビネーションがさも不思議だとでも言いたげに。

12月18日

きのうの夜はタツミさんのバースデイパーティに行き、
愛をおしまないひとびとのあいだでひとみしりしながらも、
ワインみたいな夜をすごしてきたのだった。
たんに、ワインをのんだっていうだけなのかもしれないけど。

きょうは休養日。
きのうあかねに借りた本をよむ。
ツキ(姪、5歳)がわたしの部屋へ入ってきて、
「ナニシテルノ? あ knockするのわすれた」という。
わたしのへやへはいるときは、ノックしてね と言ったことをちゃんと覚えていてくれていることがうれしい。

「どくしょ してるの。」
「ドクショ てなあに?」
「Reading してるの。」
「ワタシもreading する!」
彼女は幼児雑誌をもってきて、ベッドのわたしの横にすわる。
「シホちゃんのほん、picture ないの?」
「ないよ」
「わたしのほん pictureばっかりよ」
「そうねえ」
「はっ reading reading」

彼女の集中はながくはつづかない。
「シホちゃん?わたし、ジ かくね。」
「うん」

「シホちゃん?コレ ドシテかくの?」
「ん?あ、『そ』ね、『そ』ってむつかしいよね」

静かで、カーテン越しに冬のひざしのさす、ぽかぽかとおだやかな時間。

「ワタシ ねむくなった ねてくるね」
「うん、ねておいで。」

ツキは昼寝をしにいった。
わたしは、彼女の習字をみる。

「できるのだとか・・・。
好きな人をひきつけることが
とっても みりょくてきになって、
キラキラとかがやいて、
のジュエリーを手にした女の子は」

行を逆からかいてある。
書けなかった「そ」の字のところが抜けていた。

彼女がこの文章の意味を解するまでにはまだまだも何年かかかりそうだが、
最近の幼児雑誌ってなんだかすごい と思った。

12月17日

朝、階下の様子に異変をかんじる。

2階のじぶんの部屋でわたしはいつも、階下の様子をかんじている。
両親の尖りに尖った言い争いとか、
なんとなくわたしのことを話題にされている感じとか、
そういうとき、わたしはなかなか部屋から出ない。

きょうもわたしは出るタイミングを見計らわざるをえなかったのだが、
そこにはいつもと違った意味合いがあった。
いつもは、まったくのところ、じぶんのため。
きょうは、まったくのところ、アメ(甥、8歳)のため。

耳がとおくなり状況を把握することがややむつかしい84歳の祖母、
ゲームを独占したくなってしまうツキ(姪、5歳)、
「ひいばあちゃん」よりずっとよく状況を理解していて、ツキよりもがまんのきくアメ
の3人が同じ場にいて、
よくわかっていない祖母から理不尽ながまんを強いられたアメ。
とうとうさいごに爆発してしまう。

ことばをつくらないアメのへんな叫び声、
「かえれ!」という彼の日本語に、
84歳の老婆の号泣がつづき、
しずまりかえった様子をききとって、
わたしはゆっくり部屋を出た。

アメは二階へあがってきて、椅子に座ってひくひくとしゃくりあげている。
しゃくりあげながら、左手の人差し指の背中を噛んでいる。
ツキは彼の横の、一歩はなれたところでなにも言えずにいる。
祖母はかえってしまった。

わたしはアメの座っているおおきな椅子の後ろのすきまに入ってすわり、
アメの肩と背中をゆっくりさすった。
アメもわたしもなにもいわないので、ツキはただじっとだまって観察している。

アメのからだの力がすこしゆるんで、
アメは「ちょっとねる」と言って降りて行った。
アメは少し眠って、回復した。


「おにいちゃんでしょ」
「おねえちゃんでしょ」

アメのためじゃない、わたしのためだ。

12月16日

食のほそかったアメ(甥、8歳)はこのごろとてもよく食べる。
いつのまにか、肉よりも野菜が好きな少年になってきた。
妹のツキは、兄とは対照的に、肉とおやつばかりを食べ、食事の時間になるとだるそうにする。

お昼に、なんとなくこどもらしいご飯を作りたくなり、スパゲティナポリタンを作った。
ケチャップでうす赤くそまるパスタが、なんともいえず、わたしのこどもごころをよびさます。
誰よりもはやく食卓について、
「ぼく、パスタだいすき」と目をむいて食べるアメ。
フォークを持った右手はほとんどうごかずにいて、口と首だけでパスタをたべる。
感覚が首から上だけしかなくなったひとになってしまったかのよう。
首だけが左右にぐねぐねとうごく。へんなたべかただ。

ツキはいつも「シホちゃんとたべるの」と言ってわたしのとなりにすわるけれど、
元気に食べることへむかっているのは最初の2くちくらいで、
あとはぐにゃぐにゃと椅子にしなだれかかっている。
なんのかのと言っては彼女の興味をひいて食べさせる。

こんなふうに、たべるものにめぐまれているということ。
どういったら良いのか、わたしのこころにちらりちらりとかすめる罪悪感のようなもの。
このきもち、こどものころからずっと、持っていた気がする。
そのきもちをこの子たちと分かち合いたいかといえば、
そんなことは、ぜんぜんないのだが。

12月15日

アメ(甥、8歳)とツキ(姪、5歳)の会話がどんどんききとれなくなってきた。
日本語を母国語とはしない、という言語バランス感覚でふたりとも落ち着いてきているようすだ。

アメは、3歳から4歳ごろにかけて、日本語を話すことをとてもいやがった時期があった。
「キミが日本語で何をいっているのかわからない!」
「ニホン語はきらい!」
「うまくはなせない!」
と、英語で癇癪をおこした。
わたしは、3歳の甥に"You"でよばれるたびに、どきっとした。

ツキのほうは、兄であるアメが日本語を話すことで、アメほどは日本語に対する壁を感じることはなく育ってきているように見える。

アメとツキのふたりがふたりだけで会話しているときの、
解放された、のびやかな空気。
そんなときはふたりとも、声のいろがちがう。
どんなことも、いまの自分そのままに話してオッケーな相手であることを
お互いにみとめあっている、
とても親密で、じゃまのできない空気。

2012年1月31日火曜日

12月14日

英子さんとうちあわせをする。
英子さんの、これまでの、もの作りについての物語をきく。
いままでふれたことのない、英子さんのある一面。
「なんとなくずっと前から知っているひと」の
こころの深いところに不意にふれること、
そういうことは、起こるようで起こらなかったりするものだから、
とてもどきどきした。

わたしは、どうやら、そういった、「ふれること」を原動力にしているような、
気がしてきている。

12月13日

なかなかゆっくりあそべないツキ(姪、5歳)と、しばしあそぶ。
わたしの部屋へはいってきては、いろんなものを見たがるツキ。
「コレナアニ?」がとまらない。

「なんで こんな キレイものいっぱいあるの?」

そうか。
「キレイものいっぱいある」のか。
なんだか、
「ああ ごちゃごちゃしてきた かたづけなくちゃ かたづけなくちゃ」っていう気持ちばかりで、
わからなくなっていたな。

12月12日

2日間ひたっていたお湯みたいな感覚の余韻にひたりながら、
仕事、仕事。
社長と打ち合わせ。
社長は、これからの会社の体制についてずっと考えつづけている。
ものを、現実を、どんどんつくりだし、ととのえ、ならべかえ、
「どうしたら。。。?」って悩み、ひらめき、実行する。
そういう、ひととして生きるための、だいじなすじ、
社長のもっているそのすじは、とても密に、ぎゅっとつまっている。
それをみているのがとても好きだ。
わたしはわたし自身がそのことを学ぶためにここへきているんだと、ひそかに感じる。

12月11日

ホテルの部屋で目をさます。
ホテルの部屋って、禁煙の部屋でも、昔にしみついたような煙草のにおいがしている。
少しだけヨガをして、高円寺へ。
「おとうさん」(まり姉のだんなさま)がむかえにきてくれて、
A-ne cafe という、ずっといきたかったお店へ連れてってくれる。
メニューをみながら、なにがおいしいか、おとうさんにたくさんたずねる。
まあとどのつまりは、どれもこれもおいしいんだ、わかってたけど。

そうして、わたしが「○○にしようかな」って言っても、「やっぱり○○にしようかな」って言っても
「それはいいですね!」って言ってくれるおとうさんと、
何を注文しようかあれこれと話しあっているうちに、
まり姉が登場。
かろやかであたたかそうな色のポンチョをはおっている。
おとうさんは、ぽっちゃりと安心感のあるからだに、みどり色のコンバースを履いていて、
それがやけにかわいらしかった。
そう伝えると、
「は、みなさんそうやって褒めてくれるんです。これ、安くって、買っちゃったんですけど」
と、背中を、かくっ、かくっ、と折り曲げながら話してくれる、おとうさんである。

おだやかでやさしいおとうさん。
でも、夜見る夢の中では「革命軍に入って闘った」り、
「『あなたは悪者なので逮捕します』といわれて逮捕されてしまいました」り、
いろいろと激しいおとうさん。

おとうさんのことを話すまり姉がいつもうれしそうなのもいい、とおもっている。

いろんな種類のおいしいパンと、おいしいサラダと、おいしいカフェオレを飲んで、
まり姉とひっそり、だいじなだいじなはなしをかたりあって、
murmur magazine新刊を買いに新宿へ。おとうさんとはそこでわかれる。
「おとうさんは新宿がだいすきで、そこから外へでると、しゅんとしちゃうんだよ」とまり姉。

まり姉とふたりで外苑前へ。ワタリウム美術館の重森三玲展をみる。
ああ、きのうの伊集院くんやあやねの作品でかんじていたものが、
きょうもつながってしまった。

「おなじだね」とまり姉にいうと、
「うんっ」と、ちょっと目をおおきくしてちからづよくこたえてくれるまり姉だった。

ゆれうごいていく庭の映像にみいっていたら、
あやねが登場。
そして、滝田さん(まり姉のバンドのベーシスト)も。
4人で、すっかり暮れた外苑前の坂道をのぼってく。
「きょうは、すっごくおおきな買い物しちゃって、どきどきしてるんです」っていう滝田さん。
「あたらしいベース、買っちゃいました〜」
滝田さんの目がちょっとおおきくなって、背筋がくいっとのびる。

あやねとまり姉は、きのうはじめて出会い、
滝田さんとあやねは、きょうはじめて出会った
とはおもえない、のんびりとおだやかなお茶の時間。

東京駅であやねとわかれ、
まり姉とふたりで丸の内をあるいた。
光 について、
ひっそりとはなしをした2日間だった。
からだのなかを、お湯と光であらわれたようなきもちに、ちょっと、なっていた。
そういうことって、やっぱりちょっと、秘密にしたいものだ。

2012年1月24日火曜日

12月10日

朝、東京へ向かった。
新幹線のなかで、うとうととしていると、携帯電話がぶるぶる鳴る。
とろうとおもったら、電源がきれた。

このごろ携帯電話の調子がわるいから、
ひととの約束はちょっとだけ、いちかばちか、なところがある。
電源をいれなおすと、さっきの電話は伊集院くんからだった。
メールも2件。伊集院くんから。
「ピーコ、今日東京きてるの?さっき電話したけどつながらなかった」
「新幹線かしら」

「うん、ちょっと携帯電話のちょうしがわるいのよ 昼すぎに東京について、
ゆうがたタカ・イシイへいくの それからタケ・ニナガワのオープニングにゆく予定よ
清澄白河であえるかしら」
「そうね 清澄白光で 会えたら良いね」

「白光」って、わざとなんだろな 伊集院くんは
と思い、電池の節約のために電源を切った。

わたしはひとり、清澄庭園の角にある図書館で、しばらくぼんやりとして、
そのまた向かいに偶然みつけたお店で、お茶を2種類買う。
お茶の葉をながめていたら、何かちょっとざわめくものがあったので。

タカ・イシイギャラリーで、まり姉とおちあった。
伊集院くんの作品を、だまってみる。
伊集院くんの作品は、とてもここちよく、とてもしずかな世界へ、
わたしたちを連れて行ってくれた。

ここへくると、どんなときでも、しずかにわたしを癒し、
ふかく満たしてくれるような場所。
その場所を、この色を、形を、光を、わたしのこころの中に、しまっておこう と思った。
いつでも、ここへ帰ってこれるように。
だから、じっとずっと、みていた。

まり姉も、なんとなく、そんなような感じだった。

伊集院くんはすこし遅れてやってきた。
「いいね、作品」と伝えた。
口では、そのくらいのことを言うのがやっとだ。

伊集院くんは、今夜のうちに京都へかえるという。
レイさんの誕生日を祝うパーティのために。
レイさんは、もう生きてはいないけど。

わたしとまり姉は、あやねの作品を見に、移動した。
電車のなかで、近況をぼつぼつと語りあったりして。
まり姉のさいきん通っている美容室の美容師さんがいかにすばらしいか。
「じぶんで髪を切ってったりするとね、『それ、いいね〜!!』って、
すんごい嬉しそうに褒めてくれるんだよ」
「そんなひとなら、ちょっと切ってもらってみたいな」

あやねの個展会場はすこしにぎやか。白ワインをいただく。
いままでみたことのないような変化が、あやねの絵にうまれている。
あたらしい世界。
むずむずとわきたつようで、でも、やさしく、かぎりなくちかしい世界。
それは、わたしがいつも、あやねというひとそのものに感じていることだ。
かぎりなくちかしい。

かな子さんにも、またここで会えた。
みんなで食事。
レイさんの誕生日で、満月で、月蝕で、赤い月がでていて、
いままで知らないものどうしだった西のともだちと東のともだちがいりまじり、
すべてが満ち満ちるような夜だった。

12月9日

「僕、きたよ!」とアメ(甥、8歳)。
ああ、8歳って、まだこんなになついていてくれるんだな、と思った。

かけよってきてわたしに抱きつくツキ(姪、5歳)。
ついつい、アメよりもツキによけいに触れて抱いてしまうわたし。
ほんの一瞬、ちょっとだけさみしそうな顔をするアメ。

人見知りしてるのはわたしのほうなのか?

ジョビン(義弟、50歳)は朝から、ダイニングテーブルでパソコンをひらいて、
紙に絵を描いている。
くろいサインペンで、紙にコマわりをして、
さらりさらりと、あざやかな筆致で描いている。

ジョビンの職業は、テレビのCMディレクターだ。
絵コンテを描いている様子。

わたしの義弟たちはどっちも、絵を描くひとたちだな
と、描いている背中をみながらコーヒーをいれた。

12月8日

きのうの夜おそく、妹と、妹の夫のジョビン(4分の1マレー人、4分の3中国人。)、
それに甥のアメ(8歳)と姪のツキ(5歳)がやってきた。
あつい国、マレーシアから。
妹が結婚したとき、アメがおなかにいたのだから、
妹はジョビンと結婚して9年になる、ということだ。

姉妹のなかでさいしょにこの妹が結婚することになったとき、わたしともうひとりの妹は、
「夫になるひとがマレーシア人で、もう41歳らしい。17歳もはなれてる。」
というのでなんだかびっくりした記憶があるが、
その夫であるジョビンももう50歳である。
まえとかわらないやさしい笑顔で、ハグしてくれた。

このやさしい笑顔の義理の弟がどんな人生をおくってきて、
どんな考えでいま生きているのか、わたしはなにも、しらない。
義理の弟だと言ったって、わたしよりひとまわり以上も年上で、
外国人で、男のひとである。
妹とはいったい、普段はどんな話をしているのだろう。
そのことがいつも、不思議だ。

わたしのまわりには、外国人の夫をもっているひとがわりに多い。
そんななかで、ちらっと耳にした話。
「相手が外国人だとね、『わかりあえない』ってことについて、わりと割り切りやすいのよ」

なるほどねえ。。。

12月7日

社長にお客さん。
もったりとユーモラスな関西弁のなかに、
なんとなくするどい切っ先をかんじさせるようなかんじのひとだ。

聞こえる様な、聞こえない様な話に耳を澄ませてみたり澄ませなかったりしているうちに、
はっ としてきた。

お客さんがかえられてから、社長に言ってみた。
「ねえ、カップのプリンス じゃない?」
「あ。そうかもしれない!」
「ちょっと前倒しで来たね」
「うん でも、きっとそんな気がする」
あやしげな会話。。。。

夏ごろ社長といっしょに、遊びはんぶん まじめはんぶんで、
会社の1年のなりゆきをうらなってみたことがあった。

1月頃にカップのプリンスがやってきて、ちょっとした話をもってくるだろう、
まあ、その話については受け止めかた次第なんだけど。

そんな話。
わたし「誰だろう?社長、おもいあたる?」
社長 「○○さんじゃない?」
わたし「え〜っ?そうかなあ。わたし、○○さんっぽい気がする」
社長 「ああ、なるほど、○○さんが、誰かを連れてくるっていう線も考えられる」
わたし「そうかあ。でも、わたしの知らないひとかもしれないものね、わたしにはわからない」
なんていうはなしを、そのときしていた。

まあ その中身が当たる当たらないはべつとして、
あのときのカードに描かれたプリンスとそのお客さんがわりに似ていたので、
ちょっとおかしかったのだった。
わたしの知らないひとだった。

12月6日

階段の下に、細長いつつみがおいてあるのを目の端でなんとなくとらえていたのは
おとといぐらいからのことだったのだけど、
それが宅急便で届いたつつみだということに気がついたのは今日帰宅してからのことで、
封が空いていないということは それはわたし宛てのつつみなのでは
ということに気づくのにまた少しの間があったのだった。

ごめんね、かな子さん。
だって、そんなものが届くなんて予想していなかったのだもの。

届いたのは、まるめた壁紙が2枚。
「美術館の壁はすべてその壁紙で覆われています」というメッセージがそえられていた。
このあいだかな子さんに会った時に、
美術館の壁はどんな壁なんですか という質問をしたせいだ と思い当たる。

「んー、画材によっては、発色がかわるみたいですねえ」とおっとりと答えてくれたかな子さんだったが、
間をおかないで、こんなことをしてくれる。

わたしはかな子さんと話すとき、あまり饒舌なおしゃべりはできないのに、
かな子さんは耳以外の部分をつかってわたしの発しているものを受けとってくれているようで、
わたしのなかにかたちにならないで存在している部分を、
「これじゃないですか?」って、つんつん、とつついてくれるのだ、
とてもさりげなく、ひかえめに。

このところ、だれかからの、そんなすてきなメッセージをうけとってばかり。
うけとってばかりだ。

12月5日

きのうゆりちゃんにつくったのは、ながい首飾りで、
それを生成りの布にぬいつけたもの。
布ごとくるくると巻いて、ラッピングした。

布にアイロンビーズとつぶしだまで、文字をかいた。
"READ ME" って。

そんなふうに手がうごいていってしまったのは、
ゆりちゃんからもらったメールのせいだとおもう。

「静かな広い場所
(日本じゃない、石造りの広い空間、大きなコロン、柱の陰に私達いた。)
で、ピーコさんの髪を切ってるの。
儀式っぽかった。
クリーム色の大理石の台の上に髪をしいて、綺麗に整えていくの。
切った髪は、丸く束ねて置いておいて。
きり終って、気がつくと、髪にラインが何本かあって(少し質の違った髪が根元から毛先まであるの)、
きれいに切り揃ってから、鏡でみせて、
『これはバーコード(情報)だね。』って言って、
その情報(メッセージ)を二人で読もうとしているところで、目が覚めました。
不思議ね〜、どうしてこんなにリアルな夢を見るのかしら?」

ああ、わたしもそのなかにいきたいよ、ゆりちゃん。


このごろ、わたしがながいブレスレットやくびかざりをつくるとき、
なんだか暗号みたいなものをこめているようなかんじに、
たしかに、いつも、なっている。

その場所で、ゆりちゃんと読みとりたい。

2012年1月23日月曜日

12月4日

じぶんで髪を切った場合、しばらくするととてもやさぐれた感じになってくる。
それで、前の髪と横の髪をちょっと切った。
あまりしたことのない髪型になって、ちょっと気が晴れた。
からだがこわばってがちがちになっていたので、背中をあたためたら、
ふうーっと、からだの奥から、ためいきがでた。
そして、部屋のなかを整理した。
居場所のなかったものに居場所をつくり、
いらないものを分けた。
きもちのなかに、風がすこしふいてくる。
からだのまわりの色がちょっとあたたかみを帯びた。

夜中にかけて、ゆりちゃんへのプレゼントをつくった。

12月3日

なつかしいひとからメールがきていた。
春田さんは春に展覧会をひらかせていただいたギャラリーの担当のひとだったけど、
ちょっとそのへんで出会えないような、おもしろいひとだった。

展覧会の初日、春田さんがわたしに話すには、
「あのね、わたし、さいしょにピーコさんにあったとき、前歯、なかったでしょう。
あれね、もう、3年ぐらいまえから、なかったんですよ。
それでね、もう、自分ではすっかり慣れちゃってたから、なんとも思わなかったし、
隙き間からうどんを出したりして遊べるから好きだったんだけど、
友達に『明日差し歯をいれなければ絶交する』って言われて、仕方なく、いれたんですよ。
もう、嫌で嫌でね。
歯医者に行ったら、『とりあえず、その不細工を直しましょう』って、
借り歯を入れることになって。
不細工不細工って、5回ぐらい不細工って言われましたよその日。
でもね、歯を入れたら、顔も変わっちゃって、自分じゃない気がして、
もう嫌で嫌で、泣いたんですよわたし。
もう、うどんを出して遊べないし。
でも、友達から、『歯が無い自分の方が良いなんていうことは、絶対にありえないん  
だよ!』
って言われて。
今はようやく、ちょっと慣れて来たんですけど。
この間、よそのギャラリーのスタッフの人に会って。
その人には、前々から、『歯の無いギャラリースタッフなんて、絶対に信用してもらえないから!』
って言われ続けてたんですよ。
それで、その人にあったときに『やっと僕の言う事を聞いて、歯を入れたんだね』
って言われたんですけど、ちがうんですよ。ノリでいれただけなんです」

ああ、わたし、この人すきだわって思ったのだったけど、
その春田さんから、
「今展示されている作家さんとピーコさんは、私の中で安心感があって、雰囲気がにています 
優しい気持ちですごしてます」
というメールをもらって、
このごろずっとこころをとざしてぎすぎすと暮らしていた自分をまたはずかしく思ったのだった。

春田さんと一緒にすごした春の2週間は、
ほんとうにやさしい日々だったなあ とおもいだしていた。
裏手のカフェに飾られている春田さんの切り絵にそえられていた、
"hanuke no haruta " (歯抜けの春田) っていうサインにびっくりしたことも、
おもいだしていた。

12月2日

いろいろと心をつかれさせたので、ぐったりとしていた。
ぐったりしていたら、「ほぼ日」で三國万里子さんが編み物の公開制作をされるという情報がはいってきたので、気晴らしに と思ってのぞいてみた。

そうしたら一気に三國さんのすてきさにひきずりこまれてしまい、
インタビューだのなんだの、情報をえられるもののすべてに目をとおしてしまう。
着ているものもかわいい。
ゆびがそこそこがっしりしていてつめの短いところ、
ぐっとくる。
左手のひとさしゆびに指輪を嵌めていて、
ふつうなら編み物をするのにじゃまになるだろうと思うのに、
編んでいる様子をみると、いちどたりとて、毛糸が指輪にひっかかったりしない。
そのスキルを得たひとのみが嵌められる、ひとさしゆびの指輪。
ああ、かっこいいな。

朝おきて、白湯を飲んで、それから音楽をかけてひたすらに編む毎日。
わたしはそういう、どことなくお坊さんみたいな生活をしているひとの
日常をかいま見るのがほんとうにすきで、
どこまでもひきこまれてしまう。

12月1日

ことし最後の月がはじまる。
今のわたしはとてもこころをとざしていて、
それをじぶんで知ってはいるけど、
わかっちゃいるけどどうにもならない ってこういうことなのよ。
って言いたくなるような気分。

いやな、ばかな、せまい、じぶん。
せめて、そういうじぶんをせめないように とだけおもう。

2012年1月1日日曜日

11月30日

たとえばゆめのなかで、目的地にたどりつけなくって、
道がまちがっているということだけははっきりわかっていて、
それなのに、まちがった道をずんずんといってしまうような、
それが起こっている。

それが起こっている、っていうことだけははっきりわかっている。

夜中に苦しくなり、ねこさんにメールしてしまった。

「頭のなかがぐちゃぐちゃ。かちわりたい」

「明日、仕事?」
「うん 明日 しごと」
「ほな、寝なあかんな。温かいもんでも飲んだら。 それか、深呼吸」
「そうする ありがとう」
「それか、でんぐり返し」

たぶん、だれかがそんな状態だったら、わたしも似たようなことをいうとおもう。
(「でんぐり返し」以外)
だから、どうすればいいかは、ほんとうは、自分で知ってるってことだ。
だけど、人に言ってもらうことで、ずっとすんなり受け入れられることもある。

わたしはすんなり受け入れ、それから、
こういう非常事態のときにねこさんのちからをかりるのは、これで最後にしよう とおもった。
今年はなんども、ねこさんに助けてもらった。

11月29日

バグだとおもうのだけど、ブロックした相手にまたフォローされたのをきっかけに、
しばらくは、ツイッターに鍵をかけようと決断した。
ブロックした相手というのは、わたしの父親。

バグだとはおもうけど、
バグで起こるならなおさら、意味がある。
かたく拒否すればするほど、こういうふうにつきつけられる、
そういうことがある気がする。

ここで今わたしに見えている表面上の問題は、
「個人の境界線をわきまえずに領域を侵してくる人、その行為」だ。

ずっとくもっている何かの発端はここなんだっていうこと、ほんとうはわかっている。
そして、目に見えている「父親」が問題なのではないということも。
だけど、目に見えている「父親」という形であらわれてくるものごとに対してどう対応するのか、というのはほんとうに生死を左右する位に大きな問題なんだ、わたしにとって。


ツイッターっていう、ひとくせある交流ツール上で、
こういった問題をわたしの友人をもまきこんでおおっぴらにすることも、
きもちわるすぎて吐き気がした。

洋裁学校へいき、縫い物をして、少しだけ、きもちのやり場をつくることができた。

この問題について、わたしのこころのなかでおこっている戦争を他の人に理解してもらうことなんて、ほんとうに、不可能だとおもう。
なぜそれがこんなに大きな問題なのか、わたし自身にすらわからない。
とても孤独なたたかい。
たぶんだれしもが、いろんな形でやっていること。
だれも、たちいれない領域。

11月28日

社長が大学生のころから一緒にくらしていた猫が、このあいだ亡くなった。
それで、社長はつらい思いをしている。
あえて、会社ではそのはなしはしない。
「きょうは、はやく帰るわ」と言って、かえっていった。

わたしは残ってすこし仕事をかたづけ、
かえりに腹ぺこだったので、ラーメンをたべて帰った。

まだ、くもってる。
くもりが、つづいてる。

11月27日

展覧会を3つみに、京都へ。

あかねとあきらのおとうとである、弥太郎くんの個展も、みた。
弥太郎くんの髪は一か所だけ、ぴーんと立っていた。
セットしているのじゃない。きっとあれは寝癖だとおもったが、
その様子がけっこう自然なので、指摘するのもわすれ、
弥太郎くんの世界で弥太郎くんと話をした。
「きのうね。ここで知り合いにライブをしてもらったんですけど、
なんか、僕も歌わされてしまって。
僕、人前で歌うなんて、ほんとうにだめだっていうのがわかって、
それで、今日はもう、ぼろぼろなんですけど」という弥太郎くん。
ああ、それで、髪が。と思って、でも、だまっていた。

弥太郎くんはいつも、絵の他に、日記の様な手帳を展示していて、
そこにかかれている言葉とは、たましいのレベルでふれあえる気がするので、
毎回それを読むのをわたしはたのしみにしている。

さて、それにしても、あかねとあきらと弥太郎くんの3きょうだいの関係は、風変わりだ。
弥太郎くんの絵にかならずといってよいほど登場してくるうさぎがいる。
弥太郎くんのはなしによると、
あれは、もともと、長女のあかねがうさぎを好きだったのだが、
それを弟のあきらがひきつぎ、
それをまた、その弟である弥太郎くんがひきついだというのだ。

うさぎの人形を、とかいう話ではない。
「うさぎを好きである」ということを、ひきつぐのだ。
そして、「うさぎを好きである」ということを、下のものにゆずるのだ。

それで、弥太郎くんが今、うさぎを描きまくっている。

「でもね、今回は、姉が、僕の絵をひとつ、買ってくれたんですよ。この、ちいさいの」
と言ってうれしそうにしている、弥太郎くん。
あかねが買ったという、小さい絵。
うさぎの絵だ。
ううむ。

11月26日

「長年ためてきた怒りをついに表現した!」とおもって目をさました。
ああ、実際は、ぜんぜん外へだしていないってわけだ、がっくり。

しかし、わたしは何を怒っているんだろう。
くもってる。
視界が、くもってる。
くもっているから、何か、行動がおかしい。
おかしいっていうのだけ、なんとなくわかる。
そのくらい、くもっている。
こういうとき、しんどい。

11月25日

新月。
わたしにとって新月はリセットの日で、こころがしーんとしずまり、
きれいにかたづいた部屋のようなきもちの日なんだけど、
社長にとっての新月は、「ざらざらした感じの日。やっかいごとが多い日でもある」んだそうで、
ええ〜、そんなはずはないのに、と思っていたのだけれど。

たしかにこの数ヶ月、新月になると予想外のトラブルが多いのだった。

きょうはまんまとトラブルにまきこまれ、夜まで神経がキンキンとはりつめた一日。
なんだろう、不思議。
トラブルというかたちでやってくるけど、ほんとうは、これは何なんだろな。

11月24日

いろいろと、整理できないこころのモヤモヤがある。
このごろ、社長は、わたしに、
「そこは腹をたててもいいところ。怒ってもいいところ。」ということがある。
わたしも、わたしが他人だったら、おなじように言っているかもしれないとおもう。
だけど、厄介なことに、わたし自身が腹をたてているのかどうなのか、なかなかわからないことが多い。

はじめにがまんしていて、がまんしているのに気がつかなくて、
感情があとあとになって出てくる。
こういうとき、ああ、ほんとに、まだまだだな、って思う。

でも、あとあとになってきているのにまだ、よくわからないんだ、今。
どうでもいいやって思おうとすれば、簡単にそう思えちゃうから、
ほんとうは、どうでもいいのかもしれないし、
どうでもいいって思う方がらくだから、そう思いたいのかもしれないし、
もうそれも、よくわからない。
なにかが、くもっている。

11月23日

きのう、洋裁学校からかえってきてご飯をたべ、しばらくしたころに社長からメールがきた。
「会社のこれからのことをいろいろ考えてたら、ピー子もまじえて話したくなって」とのこと。
夜中に社長が車でむかえにきてくれて、社長宅へ。
真剣な話をしにきたわけだけど、なんとなく社長もうきうきしていて、
わたしも、大学生にもどったみたいな、友達の家に夜中にあそびにきたような、
みょうにたのしい気分。
社長のお家は、ホットカーペットがあたたかくて、
そのふかふかのカーペットにぺったり座るかんじなんかがなんだかやっぱり大学生のころを思い出す感覚でなつかしかったのだった。

社長は編み物をしながら話をして、
話はシリアスだし、社長がしている編み物は趣味用ではなく仕事用なんだけど、
妙なくつろぎのなかで、たのしくシリアスな話をした。

そのあと、深夜の海外ドラマをみたり、
龍くんがつくってくれた夜食をつまんだりして、
夜の明ける前に家まで送ってもらった。
やっぱり、大学生の夜みたいな一夜だった。

それで、きょうは、ぐったり寝ていた。

11月22日

洋裁学校ではベンツの仕上げと、シームポケットの縫い方を練習した。
うすうす感じていたけれど、わたしは、縫った部分を裏返すとどういう形になるかっていうところを予測するのが苦手だ。
予測がむつかしいから、今やっている切り込みの意味なんかが、なかなかわからなかったりする。
これはフォトショップのことを教えてもらっている時もいっしょ。
今やっていることの意味がわかんない、っていうことがしょっちゅうある。
そうするとこころがちぢこまる。
ちぢこまると、ますますみえなくなり、きこえなくなり、
わからなくなって、ちぢこまる。

まあ、ベンツを縫うくらいのことで、そこまでちぢこまっていったりは、しないんだけど、
ちぢこまるこの感覚で、体がいろいろなことをおもいだす。

11月21日

ずいぶん前のことになるけれど、
ねこさんとご飯をたべていたときにわたしの言った言葉を気にしている。

あのとき、ある人の話になって、
わたしが「だってあのひとは、ひとことで言うと王様タイプだから」と言ったとき、
ねこさんが「僕は?ひとことで言うとどういうタイプ?」ときいたのだ。
おもわず、
「うーん、ねこさんは、王様じゃあ、ないな。ねこさんは・・・
『お父さんは心配性』っていうまんが、あったよね、読んだことないけど。
そういうタイプ」
って、読んだ事もないまんがのタイトルを出してしまい、
それはちょっとひどいなと思って、
帰ってからねこさんに
「訂正、ねこさんは、ひとことで言うと、博愛主義者」
っていうメールを送ったのだが、
それもそれで、どうなんだろう、と思ったわけである。

あなたは博愛主義者だね なんて言われても、あんまりうれしくないかもしれない。
そして、「王様」と「博愛主義者」っていうのは、見る角度がちがうだけで、
同じものなのかもしれないと思ったりもする。
しかもそこには、わたしのなかにある、
「おとこって、そういう感じじゃない?わたしにはそのへんよくわかんないけど」っていうような、
なんとなく距離をもった視点がふくまれている気がするのだった。

11月20日

あるひとから、
「あなたは、既成の価値観によって縛られるととても苦しくなるタイプのひとだけど、
目に見えないたいせつなことをしっかり軸にすることができるようになって、
ある程度そのことをひとに説明したりすることができるようになると、
バリアを作ってらくに生きられるから、そんなふうにするとよいかもよ。」
とアドバイスをもらった。
なるほどと思う。

11月19日

腕に、まだ若いみみずくを抱いていた。
みみずくは、くちばしをじぶん自身の胸の中へうずめるようにして、まるまっていた。
だから顔はみえなくて、小麦色のかたまりみたいになっていた。
そういうかたまりを抱いていて、その体温をうっすらと感じていた。
肌触りがかたくてかさかさしていて、よそよそしい距離感と不安定さがありながら、
大事に抱いていた。
みみずくを抱いて草原に座っていた。
夜で、夜空に流れ星があざやかに、無数にながれていた。
あまりにあざやかで、火花が散るようで、
空襲をうけながら腕にこどもを抱いているようなきもちになりそうだった。
という夢。

11月18日

昼間、作品のファイルをつくり、
母にたのまれていたピアノ伴奏をカセットテープに録音し、
家族のための夕飯を作ってから、

かな子さんに会いにいった。
このあいだあやねとくまさんといっしょにランチをたべた場所で、きょうは、夕飯をたべる。
わたしは、キッシュとサラダとスープ。それと、サングリア。
かな子さんは、ガレット、それと、サングリア。
来年の秋にひらかれる展覧会のことを話しに、
栃木県から大阪まで、きてくださった。

かな子さんというひとは、とてもおだやかでまろやか。
だけど、ちょっと、どこか、変わっている。

たぶん、だから、出会えたんだとおもう。
そもそも、この人との出会いも不思議だった。
おおよそコマーシャルギャラリーとはほどとおい性質のギャラリーでひらいたはじめての個展に、なぜか遠いところからきてくださった、学芸員さん。
それが、かな子さんだ。
このひとは、学芸員の世界の中で、ちょっとアウトローなんだろうな、という気がする。

そして、かな子さんと話をしたあと、徐々にわたしの中でかたまっていた扉の鍵が、
ちょっとずつひらいてくるのを感じる。
ほこりがとりはらわれて、部屋の中が見えてくる感じ。
ふしぎなひとだ。
ひととひとが会って起こる化学反応みたいなのをひさびさに強くあじわう。

サングリアですこし酔って、
道をまちがえ、行きたかった「ムジカ」には行けず、
北新地のすごいところにまぎれこんで、
その雰囲気に感心しあったりしながら、いっしょに帰った。

11月17日

処分してしまうつもりでまとめてあった洋服の中から、なんとなく目についたシャツに袖をとおしてみた。
そのシャツと、いままで組み合わせたことのない服をあわせてきてみたら、
いまの髪型とかいまの季節にぴったりで、ちょっといい気分になって、
そのままいい気分で仕事をした。

そんなはかないたのしみが、日々かすかにひかって、
すこしたのしんで、そしてわすれていく。
日々のはかなく、いとしい、ちいさな。

11月16日

社長が東京へ。
わたしはひとりで仕事をする。
ずいぶんと寒くなってきて、事務所は床から凍るようなつめたさを発している。
それにしても、社長ひとりいないだけで、なんでこんなに寒くなるのか、不思議だ。
だんだんこごえてきて、頭がまわらず、指もかじかんでくる。

夜、龍くんとskypeで打ち合わせをしていると、だんだん生気がもどってきた。
家に帰ってお風呂に入っていたら、さらにアイデアがわいてきた。

ううむ、あたたかいのは大事。

11月15日

洋裁学校では、部分縫いの練習を引き続き。
今日はコンシールファスナー付けと、ベンツの縫い方。

毎週通ううちに、どうやら、わたしはこのメンバーの中ではわりに作業がはやいほうだというのがわかってきた。
あいかわらず、ミシンがけはとてもとても慎重にやっているのだけれど、
それでも、ほかのひとより先に進んでしまう。
先生のほうも、なんとなく、「このひとは教えるの楽だわ」という雰囲気を発しているのを感じる。
なんとなく、小学生のころをおもいだす。

で、今日は、布の折る方向を真逆にして縫ってしまうという失敗をした。
わざとじゃない。
先生は、わたしがおかしな失敗をしたので、ちょっとぎょっとしていた。
これくらいでちょうどいいやとおもう。
失敗のおかげで少し遅れ、また追いついた。
失敗はしておいたほうがいいと思う。いろんな意味で。

11月14日

きのうおとといと、フィギュアスケートをどっぷりみていた。
高橋大輔選手の、とぎすまされていく様子にびりびりしびれてる。
トリノオリンピックのころの彼とくらべると、ほんとうに、別人だ。
あのころは、彼がいまのようになるなんて、微塵も想像しなかった。

そして、今年は、とてもむつかしい曲をえらんでいる。
「今までえらんでこなかった、えらびたくなかった曲をえらんだ」という。

それでちょっと、このあいだのあやねとくまさんのトークショーで出た話題を思い出した。
「どちらかというと、自分を消す、自分でなくなる、ということのほうがおもしろい」
という、くまさんの話。

よく、「じぶんがきらいだから、自分じゃないものになるのがきもちいい」っていうニュアンスでおなじことを言う人もいて、
わたしは、そちら側のニュアンスで語られる場合については、若干の懐疑心をいだいていたのだけれど、

あの日、くまさんの話をきいているうちに、なんとなく、
どちらのニュアンスでもいいか
と思うようになってきた。

どちらのニュアンスであれ、やりたいことはたぶん
「あたらしい自分になる」ということじゃないかなと思うから。
そして、それを、わたしも、やっていきたいから。
一瞬ずつ、毎日、毎年、すこしずつ、
死ぬまで。