2012年2月25日土曜日

1月9日

西宮北口の駅構内を通るのは、震災の直後以来だ。
高校を卒業するまでは毎日乗っていた、この路線。
北といわれれば山を登れば良いのだし、
南といわれれば海へ降りれば良いのだった。
山から海へむかう風にふかれて、白い土ぼこりのつく、黒い革靴。

大学生になって京都へ移り住んだとき、
風が吹かないのがものすごく気持ち悪い と思ったことを思い出す。

坂道を少しのぼって、それからしばらく斜めにくだって、
段差の高い階段を随分と昇ってからやっと、インターホンを押した。

息が切れ、膝に手をついて、呆然とあまりにひらけた景色をみていたら、
ガラス張りの1階へと階段を降りてきたねこさんが、ガラスの扉にかかっている鍵を開ける一部始終がみえる。
「あけまして おめでとうございます」と息をきらしたまま挨拶する。

この、あたらしいふしぎな家を、おそるおそるみせてもらう。
南側は、はるか下方へと、神戸の海が見渡せる。
北側はきりたった雑木林だ。
ひとしきりながめて、「はあ。。。すごいなあ。。。」としか言えないわたし。

「なんか、するって言ってへんかった?」
「うん、持ってきた。やっていい?」
「ええよ」
わたしは四角いテーブルに持ってきたものをどんどん並べていく。
いろいろな色の石と、銀のはりがねと、ペンチが3種類。
それから、石をいれる、三角のちいさい皿。
四角いテーブルいっぱいを占領してしまった。

どこからか黒い四角いエフェクターのケースがでてきて、もうひとつのテーブルがわりになる。
年末年始の話をしながらアップルパイを食べ、お茶をのむ。

その後わたしはアクセサリー作り。ピアスを一組。
ピンクの石と、緑の石をくみあわせる。
ピアスができあがり、つぎはネックレスにとりかかる。
ねこさんは、音楽をかけたり、引っ越しの荷物をかたづけたりしている。
もくもくと作っていたら、すっかり日が暮れていて、
ねこさんが、「暗いやろ」と、あちこちのライトをつけてくれた。

ふと目をあげたら、ちょうどわたしの座っていたところから、真っ正面のガラス越しに、丸いオレンジ色のひかりがみえる。
「あれ、月かな、ライトのうつりこみかな、どっちかな」
「あれは、月やな」
えらく大きな、満月だった。

ネックレスの続きにとりかかっていたら、
流れている音楽にあわせてなんとなく動いていたねこさんの足が、
すうっとうごかなくなった。
眠っていると知ってちょっとびっくりしたけど、気にせずネックレスをつくった。

完成したころ、ねこさんが、夕飯をつくろうかという。
冷蔵庫の中にあるもので、パスタ。
「えっと、何をどうしたらいいんかな。段取り考えるわ」というねこさん。
ねこさんという人は、段取りをかんがえるのがうまい。
いつでもなんでも、段取りというものをかんがえているように、みえる。

どこをどうてつだったらいいのか、よくわからなかったけど、
大根をすりおろしたり、いためるのをてつだったり。

パスタは2種類できて、どちらもおいしかった。


「おとといから1週間、休暇やねん、半年に一回」
「ああ。。。まえの休暇は、7月の終わりだったもんね、もう半年か」
「ようおぼえてるな」
「だってあのとき、レイさんのことがあって、ねこさんに電話かけて。
平日の昼間だったから、てっきり仕事中だと思ったら、寝てた。」
「せやったな。あのとき、電話で何をいわれてるんか、全然わからんかったんは、
寝てたからやったんか、そうじゃなかったんか。。」
「あの日は、誰に電話しても、みんな、何をいわれてるんかわからんという反応だった」
「でも、ようおぼえてんなあ。僕、なんでこんなすぐ、なんでも忘れるんやろ。。」

「そのほうがいいよ。いろんなことおぼえてるとしんどいから、日記書いたりするんだよ」
と言ったら、ねこさんはちょっと笑っていた。

「今年は、良い年になるといいねえ」
「うん。」

テーブルにならべた石をながめる。
とくに理由もなく、ねこさんに「4つえらんで。」と言うと、
ねこさんは、赤い珊瑚と、ラブラドライトと、アマゾナイトと、両剣水晶をえらんだ。
えらびかたが、とてもはやかった。
4種類の石たちをならべて、「きれい。」といいながら、
これは何か、知っている色合いだなという気がしたが、さして気にとめなかった。

夜がふけて、ガラスの家をでた。

帰りの電車の中で、ふっと思い出す。
ねこさんがえらんだあの4種類の石の色は、
お正月にみた夢の中で、わたしが描いていた油絵の色あいとおなじなのだった。
描いていたのは、両剣水晶みたいなかたちの、クリスタルの絵だった。
何か知ってる、とおもったのはそういうわけか、と納得した。

1月8日

今日はわたしのアトリエ部屋の大々的な整理をする。
両親とわたしの3人がかり。
この部屋は、もうひとりの祖母が暮らしていた部屋。
その祖母はまだ生きているけれど、今は、動いたり食べたり話したりすることができない。
見たり聞いたり、わかったりすることがどれくらいできているかは、わからない。
その祖母のもちものをどうこうする・しない ということについて、
この数年、誰もが何も決められなかった。

これまで抵抗を示していた父が口をきって、大きな箪笥とベッドを解体した。
ほんとうに古い箪笥をひとつだけ、のこした。
ひろびろとしたスペースに、わたしのキャンバスなどを収納するように と母が言う。
どんどん、祖母のものではなくなっていく、この部屋。

昼過ぎに、妹があそびにやってきた。
ちょうど今朝、彼女がなくしたといっていた編み物の本がうちで見つかったところ。
妹は、「2001年宇宙の旅」のDVDを貸してくれる。

わたしは、数日前におもいついたあることを、妹にうちあけた。
よき協力者になってくれそうだ。
わたしのこころのなかに芽をだしかけているものが、長い時間をかけてもいい、
ちゃんと育ちますように と願う。

1月7日

きのうの夜のこと。
あかねのはたらいているお店へ行った。
年末の整理で出てきたという、あるものをもらいに。

わたしはごくたまにそこへ行って、ぽつぽつと、自分の買えるものを買う。
あそびにいくだけで、なにも買えない時もよくあって、
それではもうしわけないので、なにかいいことについての情報をもっていくようになってから、
そのお店のひととのあいだではおたがいに、なにかいいことをおしえあうようなサイクルができたのだった。

あかねに貰ったものは、白い、縒られていない、ふとい毛糸が5巻も。
それから、たくさんの紐、白と生成りと、グレーと、群青と、ショッキングピンク。
まえの年末にもわたしは同じ白い毛糸を一巻きもらい、
それで編んでいるものがある。
あたらしくもらった糸を足せば、編み上がるはずだ。
そして余るであろうたくさんの白い糸で、つぎは何を編むんだろう。

あかねに借りていた本を返すと、
「あれっ、ちょうどわたしも、続きを持ってきてたの!」と、続きの本を貸してくれる。

ものと心がいったりきたり。

1月6日

朝から、隣に住んでいる祖母が家の中を大々的に整理しはじめたらしい。
父によばれて、手伝いにいく。

祖母の家は、母が育った家でもある。
祖父が晩年を独りで暮らした家でもある。
そして今は、祖母が独りで暮らしている家だ。

10年前からの3年ほど、わたしもここで祖母と暮らした。
一緒にたべる朝ご飯のトーストとサラダとめだまやきとコーヒーが、
一日のうちでいちばんおいしいと思っていた時期だった。
あの頃、わたしの職場であった施設に通所しているひとたちのことを、
祖母がいつも「あの、あたまのおかしな子ら」と呼ぶので、
そういったことでわたしたちは何度も何度も言いあいをした。
わたしが結婚をしないことについて、祖母はおりにふれ
不幸だ 不幸だ 将来が寂しいにちがいない と言い、
かちんときたわたしは、「じゃあ、お婆ちゃんは幸せだったの?出てったくせに!」と責めては泣かせた。

祖母とのことでいつもまっさきに思い出すのは、朝ご飯のことと、けんかのこと。
それから、わたしが両親と暮らすようになったとき、祖母が泣いてさみしがったこと。

今は、「お隣さん」として暮らしている。

祖母の家に入って、2階で父が解体しているベッドを1階へ降ろすのを手伝う。
古い、大きな時計とか、空っぽの水槽とか、
通信販売で買ったあやしげな健康器具などを捨てるのを手伝う。

「あんたの絵があるねん」と祖母にいわれて見ると、
学生時代に描いたフレスコ画がベッドの裏から出てきた。
一緒に住んでいた頃にわたしが持ってきていたものだ。
すっかり忘れて、学生時代に描いたものは全て捨てたと思い込んでいた。
さて、どうしよう、こんな大きな絵を。
とにかく、自分のアトリエ部屋へ運んだ。

「あと、その椅子な、捨ててほしいねん」と言う祖母。
みるとそれは、介護用のシャワーチェアだ。
たしかこれは何年か前に住宅改修をしたときに、祖母の希望で買いそろえたもの。
「その椅子な、昔、アメやら、向かいの秀くんやらが遊びにきたら座らせようと思って買ってん、子供の椅子やねんわ」
と祖母は言う。
椅子をうらがえすと、確かに介護用品メーカーのシールが貼ってある。

祖母は何度も、子供用の赤い椅子やねん というので、
しかたなくこの椅子も、わたしのアトリエへしまっておいた。

もうこの椅子は、祖母にとっては子供用の赤い椅子なのだ。
そのことについての言い合いは、もう、できない。

祖母の部屋の片付けがすんで、
アトリエ部屋でぽかんと昔の模写をながめた。
「出産の聖母」という、ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵の模写。
とてもへんな絵だ。
なんでいまごろでてきたんだろう と思う。

2012年2月24日金曜日

1月5日

きのうの帰り、わたしはほとんど泣きそうになっていた。
なんというか、たましいの奥のほうでひとと触れあったような感じというか、
いきるためにとても大切な、なにかの素をいっしょにわけあって食べたような、
そんな感じがしたのだ、くるみちゃんと蓮村さんとの昨日のできごとは。

去年も今年も、図らずも、年始にひとと大事な語りあいをしてすごしている。
去年も今年も、図らずも、異なるひとと、3人で語りあっている。

朝起きて、本をよみながら、腰のまわりの筋肉をゆるめたり、
骨盤から脊椎のゆがみをなおしたりしてみたら、
年末からたまっていた、かたまった鈍痛がすうっと軽くなって消えていった。
消えていってみてはじめて、どんなにその痛みが重たいものだったのかがわかった。

軽くなったからだで、仕事はじめ。
仕事はじめに、社長と龍くんと3人で、大阪天満宮へ詣でた。
大阪天満宮へお参りするのは初めて。
黒い背広のひとたちがたくさんだ。
まず社長がお参りをして、
わたしがお参りをして、
さいごに龍くんがお参りをした。
美しくはなやかなお化粧をしたアルバイトの巫女さんたちから、福笹を買った。
美しい3人の巫女さんたちが、社長と龍くんとわたしに、花のような笑顔で
しゃらりんしゃらりん、しゃらりんしゃらりん、と鈴を廻して鳴らしてくれる。

そこから3人でてくてく歩いて会社へもどった。

3人づくしだ。

2012年2月19日日曜日

1月4日

朝、鼻うがいをしたら、奥のほうにたまっていたものがたくさん、ひといきに全部出て、
ああ 幸先がいいなとおもった。

蓮村さんといっしょに、くるみちゃんに会いにいくのだ。
くるみちゃんには、9年ほど前にCDを出版したときにお世話になった。
蓮村さんはその時期、たくさんのチャーミングなレビューを書いてくださった。
月日はながれ、わたしたちはほうぼうへ散り、結婚や出産などを経て(わたし以外は、ということだが)
今日再会する。

蓮村さんの愛娘みくちゃんとともに、話に夢中になって電車を乗り過ごしたりしながら、
なんとかくるみちゃんの待つ駅に着くと、
おもかげかわらない、なつかしい、ねこむすめのようなくるみちゃんが、
細面のきれいな顔した少年と立っていた。

この子が、サクくんなんだ。
こんなに大きくなるまで会えなかった。やっと会えた。
胸がぎゅっとなった。

「いらっしゃい」とほほえむくるみちゃんの、鈴のなるような声。

蓮村さんと、みくちゃんと、くるみちゃんのお手製のおいしい小松菜のポタージュや豆入りのサラダ、
お土産にもっていったオリーブ入りのパンとワイン、
そしてケーキもたべる。
サク君は、ごはんはすませたといって、少しはなれたテーブルでお善哉を食べたりしている。
元気いっぱいで、非常にしぶいお笑いのセンスをもった三歳のみくちゃんとの会話に、
女どうし三人の会話をはさんでおりまぜて、
わたしたちの会合はすすんだ。

二階から走りおりてきたサク君の、「雪降ってる!」の声に、
全員で二階へあがって、グレーの空からおちてくる牡丹雪にしばしみとれる。
「初雪かも」
「初雪だね」

最近ピアノを習いはじめたサク君のキーボードで、
みくちゃんのリクエストの「ゲゲゲの鬼太郎」を弾き、
サク君が今大好きな、タンタンの本をみせてもらったりする。
サク君は、どのシーンがすきか、読み上げて教えてくれた。
わたしもタンタンシリーズは大好きだったので、
一緒にハドック船長のセリフを言ったりしてあそんだ。
少しずつサク君がうちとけてくれるのが、なんだかたまらなくうれしい。

わたしたち三人。
いろいろな事情でいろいろなつらい時期を似た期間にすごしていたことを知る。
そして三人とも、これから新しい場所へじぶんじしんを開いていこうとしていることを、
お互いに感じている。
わたしは、少しはなれたところにいる親友が、最近すばらしいものを書いたことを、
ふたりに話してしまった。
ふたりはとてもおどろき、そして、よろこんでいた。

人をつきうごかして、これをせねば、とおもわせるもの。
ときにそこには恐れや不安がつきまとって、ひとをうごけなくさせるけど、
それをこえて行動したとき、見える世界は少し変わっている。
このごろ、周囲にいるひとたちがどんどんそのようなあゆみかたをしはじめているように
おもえてならない。
そのひとつひとつを、うつくしいとおもう。

遅くまではなしこみ、あわてて帰る。
サク君に「サク君のおかあさんを独占してごめんね。またあそぼう!」
と言ってわかれた。

1月3日

やっと、年賀状をかきはじめる。
書く、というか、描く、が主だ。

色をえらびはじめると、こころがちがうところへうつっていく。
その、ちょっとちがう場所にいるとき、なんだか幸せだ。

なんとなく急に、父との関係をかえようと決心した。

父に、旅行の感想をいろいろとたずねてみる。
わたしが急に自分から話しかけたので、少し驚いていたようだが、
うれしそうに話しはじめて、とまらなかった。

父に対して、どうしてもどうしても向けてしまうことをとめられなかった憎悪、
あれはいったいなんなのだろう。
父という個人に対してだけではない、
なにか、父という存在にいろいろなものを投影させてわきおこる、憎悪の感情、
であるような気がする。
すべて、わたしのなかにある記憶からおこっているんだろう ということだけ、つよく感じていた。

憎悪をひとにむけることで、じぶんを憎んでいく。
それを、どうやってもとめられない、ということが、とても苦しかった。
ここさえ抜けられたら、ほとんどなにもかもがオッケーになるんじゃないかと思うぐらい、
このことは、なんだかおおごとだった。

どういうわけか、今日の朝、すっと抜けられるような気がしたのだ。
そのタイミングがやっと来た、と、なぜか確信した。
なにがどうなっているのかよくわからないけど、
とにかく、そうだったんだ。

1月2日

夢のなかで、油絵を描いた。
イーゼルにキャンバスをたてかけて、
ペインティングナイフをつかって、絵の具をもりあげたり、けずったりしながら。
色と色が、立体的に混ざる。

すこしグレー味かかった水色のような色で、
両剣水晶みたいなかたちのものを描いていた。
濃いブルーがまじったり、あざやかな赤い色がまじったり。

外に出て、首にかけた金の鎖がほどけかけているのをとめなおして、
「おかあさんが死んだことを、最近ついつい忘れているときがある」とともだちに話す。

ともだちとわかれて、日ののぼりはじめた道路を走りはじめたら、
道路の脇には雪がこんもりと積もっていて、
融けかけの雪が、走るわたしの靴にしみこんでくる。
重くなってくる足。
道路の脇に、こんもりと積もっているとおもっていたものは、人の死体で、
まだ少し息のある人が、わたしの足をつかもうとする。
それを振り払って、走っていた。

1月1日

パソコン越しに空のあかるくなるのをみてから、ベッドに入った。
昼過ぎに起きて、かんたんな雑煮をつくる。
できごころで、蕪とにんじんを、星や花や馬のかたちのクッキー型で抜いた。
ちょっと煮過ぎて、蕪の馬がいなくなってしまった。

のこっている蕪とにんじんで中華風のなますをつくる。
柚子の皮をほそくきざんで、のっけておく。
蓮根やごぼうなどの煮物もつくる。

テレビで、中国の少林寺で修行をするわかいお坊さんのドキュメンタリーをみた。
興奮にちかいひきこまれかたをする。
こどものころに最初につよくひかれた職業が修道女か尼僧(職業というのだろうか、?)だったので、
いまでもああいう世界には否応なくひかれてしまう。
ひかれてしまうと同時に、
わざと、そういうふうにならないように抵抗している感じもする。

夕方に両親が帰ってきて、わたしのつくったおかずを全部たべていた。
わたしは、なますを食べずじまいということになった。
2012年だ。

12月31日

音楽をかけて、アクセサリー作りをする。
クロガネさんがくれた、ミックスCDR。
世界各地のめずらしい音楽など、クロガネさんのおきにいりの曲がたくさんはいっている、
とても密度の濃い1枚だ。

わたしはこのごろ、天然石を1種類だけつかったピアスをつくるのにはまっている。
1種類だけつかったピアスを、何種類かつくった。
赤、ピンク、青緑、紫、など。

きのうは、布屋さんで黄色の布を買った。
ちかごろ、黄色という色が気になるので。
すこしだけ青みのはいった黄色が、とくに好きだ。

今日はぜったいこの色 というのが、なんとなくある。
どんなに、作った時に気に入ったものでも、今日はぜったいに身につけたくない、
今日はぜったいこっちの色だ、というのがある。
そして、その日着ている洋服の色がしょっちゅう同じになるともだちが、いる。

たまっていた日記を書いて、年を越した。
今年全部の日記を書き終える事は、できなかった。

12月30日

年末年始のやすみのあいだにしたいと思い描いていることの、
ぜんぶができるだろうとは思っていないけど、
せめて、したいことのうちの一部だけでもいいから行動しようとおもう。

なんというか、この年は、重い鉛のはいったベルトと靴を装着させられたかのように、
こころとからだのうごかない年だった。
プールの中で走るよりもずっと遅くしか走れないで、
どんどんとエネルギーが果てていくような。
その感じがいちばんつよかったのは、
やはり、地震のおこったあの日からの日々。

地のなかへとエネルギーがどんどん飲み込まれて行くような、
重力がいつもよりもとても強く重い感じがして、
数日間、アトリエ部屋にいても、座ったままでうごけなかった。

同時に、自分の中からどんどんと、たまっていたいろいろなものが明るみに出てきたような感じもしている。
世の中でおこっていることも、そんなふうにみている。

まだまだ、わたしのなかには、出て行きたがっている膿みたいなものがある。
わたしはこれまで、そういうものを、出しちゃいけないんだとおもっていた。

あるとき、あるひとが、
「大地はね、そういうものを全部うけとりたがってるんだよ。
どうぶつのおかあさんが、うまれたこどものきたないものをぜんぶ舐めてきれいにしてあげるみたいにね」
っていうのをきいた。ちょっと涙がでた。
その話をきけたのも、今年のことだった。

子どものときから、
「人間は、地球をよごすことしかしないのに、どうして存在するんだろう。人間がいなくなれば、地球も宇宙もよごれないですむのに」と
わたしは思っていた。

いまは、
「どうして」かはうまく言えないけど、
存在をゆるされているんだな、とおもうようになった気がする。

12月29日

昨日から両親は台湾へ旅立った。
朝から糠床をかきまぜる。
大根ののこりを糠にしずめた。

今日で仕事納め。
今年ここではたらきはじめたことは、わたしにとって、ほんとうにたいへんなことだった。
その意味は、まだわたしには、わからない。
わからないけど、なにか、とてもつよいつながりのようなものを感じる。

いつもより少し早くあがらせてもらって、
数日分の朝ごはん用のパンを買い、
心斎橋筋まで少し歩いて、帰った。

数年前までは、年末は大嫌いだった。
家族が家に揃うと、かならず何か不愉快なもめ事がおこるので。
昨年から両親が年末年始を台湾で過ごすようになり、
わたしはひとりしずかに年を越せる。
新しい年のくるのをまつ時間はわたしにとって、たのしみなものに変わった。

12月28日

炎症はまだまだしつこく居座っている。
たぶん、中途半端に薬をつかっているので、
出て行きたくても出て行けなくてうろうろしている感じがする。
こちらとしても、今は出てこないで、とか思っているのだから、しかたがない。

仕事中はまさに、「今は出てこないで」の時間なので、
からだには、ごめん、ごめん と言いながら。

仕事をする時、わたしは、出てきてもらうのをおそれてるんだ、からだの痛みやつらさに。
仕事じゃない時は、出てきても大丈夫なのに。
なんで?
と、こころのどこかで思いながら、年末の仕事をした。

12月27日

年末で、洋裁学校もお休みなので、じっくりと体調を治す。
母にしたことを、じぶんにする。
だけど、なんだろう、
ひとにしてあげるときと、じぶんに対してするときの、
きもちのこめようというか、愛情のかけかたの、このちがいは。

じぶんに対してしているとき、ぜんぜん気持ちがこもってないかも
ということに、はたと気づく。
ちょっとショックだ。

首や肩ががちがちになってくると、
目のまわりもいたくなってくるので、
蒸しタオルを目にあてた。

まぶたがあつくなると、暑い国で暑い日差しを受けているような気分になった。

12月26日

本格的に悪寒がやってきたので、
背中にカイロをはって、仕事をした。
そして、仕事をするために、薬のちからをかりる。
薬を飲むと、体の中がすこしかわいたかんじになって、
とろんと浮いたようなふうになる。
これは、治るというのとはちがうというのを、このごろ感じるようになった。

しかしこの、とろんと浮いた感じ というのはなかなかきもちがよいものでもあって、
これが切れるときがくることを思うと少し憂鬱になったりする。
効果がきれるとほんとうに魔法がとけたように体中だるく痛くなってくる。
治すということとは逆方向をいっている とはわかっていても、
やっぱり頼ってしまうのだ、仕事のときは。

12月25日

新月。
広島は晴れただろうか。
まったくもって、きちんと節目節目に行事のくるひとだな、レイさんは、と、感心する。
冬らしい、りんとした寒さを感じる。

わたしはからだの具合はよくないが、きもちはとてもすっきりしている。
たまっていた何かがどんどん出て行くであろう気配がする。

タツミさんのパーティであかねに会ったときに借りた本を熱心に読んだ。
このタイミングで借りられてとてもよかったなと思う。

母は起きられるようになった。
もうすぐ台湾に旅行するので、その準備をしている。
旅行のたのしみで、すぐに具合がよくなりそうな様子だ。

夜、副鼻腔炎について、アーユルヴェーダ式にはどんなふうに治療するのか、
インターネットでしらべ、なるほどなるほどと深く納得した。

12月24日

朝から、母のぐあいがとてもよくない。
吐き気と頭痛と悪寒がひどいという。
症状をきくと、おそらく副鼻腔炎のようなのだけど、
熱も高く、放ってでかけることはとてもできないと思って、
ねこさんの新居でのパーティはキャンセルさせてもらった。

これでもう、ねこさんからのお誘いを断ったのは2回目だ。
1回目はじぶんの都合で、
 2回目はこのように。
それもまた、気が重い。

副鼻腔炎って、頭痛の中でももっとも不快でつらい頭痛をともなうものだ。
それから、鼻のなかの炎症がなぜか首や肩の筋肉に直結しているという感覚がある。
副鼻腔炎をおこしたときには、首と肩からはじまって全身ががちがちになってしまう。

吐けるだけ吐くようにうながし、
母がゆっくり、どっぷりと、眠れるだけ眠って、目ざめるまでまつ。
食欲がないので、お白湯と、梅醤番茶をもっていく。

父はいろんなものを混ぜこぜにした、しいたけの出汁の雑炊をつくったが、
母は食べられなかった。
なぜ、気分がわるいひとに、いろんなにおいのするようなものを作る気になるのだろう。。。
「食べてみろ!」と怒鳴る父。
なぜ怒鳴るんだろう なぜ押し付けるんだろう。

わたしが扁桃腺をはらして高熱をだしたときに、父がつくったものを思い出す。
ものすごく辛い香辛料をたっぷりつかった、麻婆豆腐。
わたしがたべられないと、父は怒って捨ててしまった。
おもいだすにつけ、疑問と怒りががふつふつとわいてしまう。

しばらくして、母がすこし何かたべたいというので、
やわらかくしたごはんと梅干しだけもっていく。
わたしが用意しているその様子を、ダイニングテーブルからのぞきこんでいる父。
何もいわず、これで、つたわったらいい と念じるわたし。

梅干しはほんのすこしだけたべて、「もういいわ」と母。
湯たんぽの湯を入れ替える。
ボウルにお湯をはり、ユーカリオイルを数滴垂らして、バスタオルとともにもっていく。
ボウルのうえに身をかがめ、あたまのうえからバスタオルをかぶって、蒸気をにがさないようにしながら、
ユーカリオイルの蒸気を鼻から吸いこんでみて、と言った。
「これは、きもちがいいわ」という母。

その後、がちがちに凝り固まっているであろう、首や肩、背中、腰、足先まで、
ゆっくりとほぐしていく。
足裏もきっと、がちがちのはずだ。
「足の裏って、きもちがいいんやね。。。」という母。
少し眠りについたようだった。

夜、わたしも、鼻水がどんどんでてくる。
たぶん、うつったんだ。
マレーシアのみんなが来ている間、家の暖房をかなり長い間つけていたので、
部屋がとても乾燥していたし。

塩むすびと、野菜のポタージュだけ、たべる。
具合がよくないときは、あまり食べない方が、もっているエネルギーを病気の回復のためにまわせる気がして、
そんなふうにしている。
じぶんの部屋で塩むすびをたべ、しじゅう鼻をかみながら、フィギュアスケートをみた。

そのようにしてクリスマス・イブの夜は過ぎた。

12月23日

夕方まえに家を出る。
京都に着いたらもう、あたりは暗がりと化していて、
ああ、これはまた、道にまよってしまうパターンである とあおざめた。
わたしはいわゆる方向音痴で、地図があってもまようときはまよってしまう。

つまり、「地図が読めない女」なのかもしれなくて、
しかし、そういうふうに「女らしさ」が定義されるのがいやで、
じぶんをそういうふうに「女」のカテゴリーにいれられるのもいやだ。
このことに関してはいつも複雑なきもちを抱いている。
そのくせ、ひとりで夜に知らない場所をあるいて、まよったりして、
でも意地でたどりついて、
くたくたに疲れて帰る ということを、たびたびおこなうのだった。

さて、目的地はふたつ。
ひとつは、英子さんがつくっているミラーボールの展覧会場。
民族雑貨などを売っているお店の二階へと木製の階段をみしみしあがっていくと、
まるで屋根裏のひみつの部屋みたいなところで、いくつものミラーボールがゆめゆめしく
光をはなっていた。

ミラーボールにつかわれている鏡はすべて、英子さんの手でひとつひとつカットされている。
その器用さがみためにあらわれている、英子さんの手が好きだ。
いとおしそうにミラーボールを手で回して、ひかりがくるくるうごきまわるのをみつめる英子さん。うれしそう。
ここにこそ、英子さんのいちばんだいじな世界があるんだろうな、って思う。

2つめの目的地までの道を英子さんにおしえてもらったのだけど、
迷ってしまった。
ひとけのないところまで道をゆきすぎて、もう、あたりは漆黒の闇だった。
暗くて、さむくて、もう、かえってしまおうかなと思ったけれど、
やっぱりくやしいからずんずん歩いて引き返した。
こういうときにみつける目的地のあかりというのは、なんでこんなにあったかいのか。

ぶじにゆうこちんの絵をみることができた。
これもまた、料理やさんの二階へ、木製の階段をみしみしとあがっていく。
レイさんのすがたがここかしこにあらわれる。
ゆうこちんの絵は、なんというか、とてもこわい世界と紙一重のところにあるとおもう。
黒いクレヨンや黒い鉛筆だけで描いた絵、
アクリル絵の具を使った絵、
そのどの絵にも、真っ黒な指の跡がいっぱい、いっぱいついている。
描いているときのゆうこちんって、いったいどんな顔してるんだろう、と思う。

お菓子をもらっていっしょにたべながら、いろいろ話をする。
もうすぐ、広島で納骨をするんだということ。
「25日って、クリスマスじゃない。たいへんだね」と言うと
「うん、そうやねん。でも、クリスマスに納骨って、なんかたのしいから、いいねん!」とあかるく笑うゆうこちんだった。

あかねがやってきて、また、3人でお菓子をたべた。
あかねとゆうこちんのお誕生会をしたときのことをおもいだす。
ひるまからあきらの家で、ゆかちゃんやみどりちゃん、はなちゃんと一緒に料理を準備した。
レイさんもゆうこちんとやってきて、つくったジャガイモのグラタンをおいしいといって食べてくれた。
ゆうこちんとあかねに、おそろいの、いろちがいのブレスレットをプレゼントして、
ふたりの写真をとった。
暑い暑い夏だったから、ふたりとも、頬がピンク色にひかって、ちょっとこどもみたいで、
姉妹のようで、かわいかった。

今も、ふたりは姉妹のようにちかしい。

12月22日

彼らが去っていった後のしずけさ。
以前にくらべて、その差が少なくなってきた気がする。
アメもツキも、だんだんと大人にちかづいていくのだということを、
そのことによっても気づかされる。

今回、アメに会っていちばんに思ったのは、顔がかわったということ。
目元にあった険が消えて、目がおおきくぱっちりとした。
そのことを妹に伝えると、彼女も
「うん、私もそう思っててん。性格も、前はもっとぴりぴりしてたけど、
そういうのが無くなった」と言う。

数年前のアメを思い出す。
妹にいわれたことで腹をたてて、
だけどどんな風にそれを表出していいのかわからなくて、
あぶないものをふりまわすしかなかったアメ。

「言葉でいいなさい!」と言ったところで、
その「言葉」は、なかったのだ、あの時の彼の中には。
「人に向かってあぶないものをふりまわすのはルール違反!」と、
持っていたものを厳しくとりあげたら、
泣いて泣いて、胃の中のものをぜんぶ吐いた、アメ。

バイリンガルやトリリンガルの子どものコミュニケーションについて勉強したことがないから、
巷で言われていることは全然しらないけれど、
彼らは、ことばというものの扱い、そしてことばをつかったコミュニケーションというものに、
わたしたちが思っているよりずっとずっと、混乱や苛立ちを感じているような気がする時がある。
両方の親がそれぞれまったく違う言語を話すというのは、
ただことばをおぼえればすむ という問題ではないように感じるから。

今回の滞在中に義弟が撮った、おびただしい数の写真を見た。
ツキとアメと一緒にピアノを弾いていた時の写真があった。
アメが、アメじゃないみたいな顔をして笑っている。
こんな顔して笑うときがあるんだ、と思った。
義弟の、ものごとのいちばんうつくしい瞬間をとらえる才能をかんじる。

12月21日

先日、ツキ(姪、5歳)が写真を撮られる時に"I don't like photo!"と言っていじけていたのを、わたしは知っている。
わたしも、写真を撮られるのはにがて。
こっそりとツキに"I don't like, neither" とささやいた。

今朝、わたしはツキに「しゃしん、とろっか。」と誘った。
誰かと一緒に写真をとろうと誘うことなんてめったにない。
ツキはあっさり「うん!」と言って、一緒に床にねころんだ。

撮れた写真をツキにみせて「オッケー?」とたずねたら
じっと見てから"OK."と言い、
「なんかー、オンナシみたいな かおね」と言う。
「どこがオンナシ?」とたずねると、
「め」と言いながら、彼女は写真のなかの彼女とわたしの目を交互に指差した。


仕事に出る前にわたしのアトリエ部屋で片付けをしているジョビン(義弟)に声をかける。
「もう、出かけなきゃいけないから、お別れを言おうと思って」

Oh, と言って近づいてくるジョビン。
「きてくれてありがとう」
「ありがとう。君のアトリエで泊めてもらってごめんね、ありがとう」
「ううん、散らかっててごめんなさい」
「ちっとも気にならないよ、またマレーシアへおいでね」
「うん、英語勉強するね」
ハグするわたしたち、その間でわたしたちを見上げている、ツキ。

「ほら、シホちゃんにごあいさつしなさい、」と妹に言われて
「バイバイー」とふらふら手を振るアメ(甥、8歳)。
今回もそのようにして皆とわかれた。

このごろ、アメの反抗期のことをしばしば想像するわたし。
あのアメも、そのうち一日4食とか5食とか食べる、
がつがつした男の子になっていくんだろうか??
口をきいてくれなくなるのは何年後ぐらいからなんだろう。
そんなことを。

高校を卒業するまで、同年代の男の子をほとんどみないで育ってきたので、
わたしは、うすぼんやりとしか、想像ができない。

2012年2月18日土曜日

12月20日

みのりちゃんのいる台湾へ、絵を送った。
春にみのりちゃん夫妻がうちに数日滞在したとき、
わたしのアトリエをみてくれて、この絵を気に入ってくれたのだ。

キャンバスをぴったりとくるめるように、段ボール紙を切り、テープでとめていく。
みのりちゃんはどんなお家に住んでいるのだろう。
どんなふうに、お家にかけられるだろう。
どうか、無事につくように。

あのとき、夫婦でわたしの絵をひとつひとつ大事に見てくれたことを思い出す。
あのとき、わたしのアトリエのなかに、ふたりのやさしい温度が充満した。
みのりちゃんがキャンバスをもってこの絵をじっとみつめていたときの、
白いやわらかい手が目に浮かんだ。

夕方、洋裁学校へ行く前に、ひとりでお茶を飲んで、いろいろなことを考えた。
授業が終ってからも、またひとりでお茶を飲みに行って、いろいろなことを考えた。
考えごとをするには、お茶を飲みにいくのがわたしにはいちばん、いい。
まわりにたくさん人がいるにもかかわらず、なぜかはかどるのだった。

2012年2月14日火曜日

12月19日

朝起きて階下へおりると、まだアメもツキもめずらしく眠っていた。
ジョビン(義弟、50歳)がひとりでテーブルについている。
わたしが朝ご飯をたべていると、話しかけてきた。

「君の絵をみたけど、いいね」
彼はわたしのアトリエ部屋で寝泊まりしているのだ。
「ありがとう」
びっくりした。

そして彼は、ビジネスマンとしての見地から、2つ3つの助言をくれた。
とてもうれしい。
そして同じような助言をいままで数人のひとからもらっていることに気がついた。

その後、いろいろとぎこちなくわたしがジョビンと話をしていると、
アメが起きてきてニヤニヤしながら近づいてきた。

大人同士の会話の出来る程の英語をぜんぜんはなせないわたしと、
ジョビンとのコンビネーションがさも不思議だとでも言いたげに。

12月18日

きのうの夜はタツミさんのバースデイパーティに行き、
愛をおしまないひとびとのあいだでひとみしりしながらも、
ワインみたいな夜をすごしてきたのだった。
たんに、ワインをのんだっていうだけなのかもしれないけど。

きょうは休養日。
きのうあかねに借りた本をよむ。
ツキ(姪、5歳)がわたしの部屋へ入ってきて、
「ナニシテルノ? あ knockするのわすれた」という。
わたしのへやへはいるときは、ノックしてね と言ったことをちゃんと覚えていてくれていることがうれしい。

「どくしょ してるの。」
「ドクショ てなあに?」
「Reading してるの。」
「ワタシもreading する!」
彼女は幼児雑誌をもってきて、ベッドのわたしの横にすわる。
「シホちゃんのほん、picture ないの?」
「ないよ」
「わたしのほん pictureばっかりよ」
「そうねえ」
「はっ reading reading」

彼女の集中はながくはつづかない。
「シホちゃん?わたし、ジ かくね。」
「うん」

「シホちゃん?コレ ドシテかくの?」
「ん?あ、『そ』ね、『そ』ってむつかしいよね」

静かで、カーテン越しに冬のひざしのさす、ぽかぽかとおだやかな時間。

「ワタシ ねむくなった ねてくるね」
「うん、ねておいで。」

ツキは昼寝をしにいった。
わたしは、彼女の習字をみる。

「できるのだとか・・・。
好きな人をひきつけることが
とっても みりょくてきになって、
キラキラとかがやいて、
のジュエリーを手にした女の子は」

行を逆からかいてある。
書けなかった「そ」の字のところが抜けていた。

彼女がこの文章の意味を解するまでにはまだまだも何年かかかりそうだが、
最近の幼児雑誌ってなんだかすごい と思った。

12月17日

朝、階下の様子に異変をかんじる。

2階のじぶんの部屋でわたしはいつも、階下の様子をかんじている。
両親の尖りに尖った言い争いとか、
なんとなくわたしのことを話題にされている感じとか、
そういうとき、わたしはなかなか部屋から出ない。

きょうもわたしは出るタイミングを見計らわざるをえなかったのだが、
そこにはいつもと違った意味合いがあった。
いつもは、まったくのところ、じぶんのため。
きょうは、まったくのところ、アメ(甥、8歳)のため。

耳がとおくなり状況を把握することがややむつかしい84歳の祖母、
ゲームを独占したくなってしまうツキ(姪、5歳)、
「ひいばあちゃん」よりずっとよく状況を理解していて、ツキよりもがまんのきくアメ
の3人が同じ場にいて、
よくわかっていない祖母から理不尽ながまんを強いられたアメ。
とうとうさいごに爆発してしまう。

ことばをつくらないアメのへんな叫び声、
「かえれ!」という彼の日本語に、
84歳の老婆の号泣がつづき、
しずまりかえった様子をききとって、
わたしはゆっくり部屋を出た。

アメは二階へあがってきて、椅子に座ってひくひくとしゃくりあげている。
しゃくりあげながら、左手の人差し指の背中を噛んでいる。
ツキは彼の横の、一歩はなれたところでなにも言えずにいる。
祖母はかえってしまった。

わたしはアメの座っているおおきな椅子の後ろのすきまに入ってすわり、
アメの肩と背中をゆっくりさすった。
アメもわたしもなにもいわないので、ツキはただじっとだまって観察している。

アメのからだの力がすこしゆるんで、
アメは「ちょっとねる」と言って降りて行った。
アメは少し眠って、回復した。


「おにいちゃんでしょ」
「おねえちゃんでしょ」

アメのためじゃない、わたしのためだ。

12月16日

食のほそかったアメ(甥、8歳)はこのごろとてもよく食べる。
いつのまにか、肉よりも野菜が好きな少年になってきた。
妹のツキは、兄とは対照的に、肉とおやつばかりを食べ、食事の時間になるとだるそうにする。

お昼に、なんとなくこどもらしいご飯を作りたくなり、スパゲティナポリタンを作った。
ケチャップでうす赤くそまるパスタが、なんともいえず、わたしのこどもごころをよびさます。
誰よりもはやく食卓について、
「ぼく、パスタだいすき」と目をむいて食べるアメ。
フォークを持った右手はほとんどうごかずにいて、口と首だけでパスタをたべる。
感覚が首から上だけしかなくなったひとになってしまったかのよう。
首だけが左右にぐねぐねとうごく。へんなたべかただ。

ツキはいつも「シホちゃんとたべるの」と言ってわたしのとなりにすわるけれど、
元気に食べることへむかっているのは最初の2くちくらいで、
あとはぐにゃぐにゃと椅子にしなだれかかっている。
なんのかのと言っては彼女の興味をひいて食べさせる。

こんなふうに、たべるものにめぐまれているということ。
どういったら良いのか、わたしのこころにちらりちらりとかすめる罪悪感のようなもの。
このきもち、こどものころからずっと、持っていた気がする。
そのきもちをこの子たちと分かち合いたいかといえば、
そんなことは、ぜんぜんないのだが。

12月15日

アメ(甥、8歳)とツキ(姪、5歳)の会話がどんどんききとれなくなってきた。
日本語を母国語とはしない、という言語バランス感覚でふたりとも落ち着いてきているようすだ。

アメは、3歳から4歳ごろにかけて、日本語を話すことをとてもいやがった時期があった。
「キミが日本語で何をいっているのかわからない!」
「ニホン語はきらい!」
「うまくはなせない!」
と、英語で癇癪をおこした。
わたしは、3歳の甥に"You"でよばれるたびに、どきっとした。

ツキのほうは、兄であるアメが日本語を話すことで、アメほどは日本語に対する壁を感じることはなく育ってきているように見える。

アメとツキのふたりがふたりだけで会話しているときの、
解放された、のびやかな空気。
そんなときはふたりとも、声のいろがちがう。
どんなことも、いまの自分そのままに話してオッケーな相手であることを
お互いにみとめあっている、
とても親密で、じゃまのできない空気。