ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。
この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。
ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。
ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。
ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。
「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、
世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。
なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。
いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。
「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」
そうそう、まさに、それそれ。
どんなにあいいれない相手の考えにも、
その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。
でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…