2017年1月10日火曜日

2017年1月9日

忙しくなると泳ぎに行けなくなってそのままになってしまう
ずっと座り仕事なので、心肺機能も弱っていく
宇野千代が家の中で1日一万歩歩いていたことから発想してアトリエ部屋の机の横で前進しないランニングをしてみた
身体があたたまり気がすっとした
春には三輪山に登れるように体力をつけたい

2016年11月16日水曜日

2016年11月16日

どこ見たってつまんなくて最低最悪な世の中で
ひとすじの光みたいなものが見えたその瞬間にしがみついて生きているし
そこにしがみついて作品を作っているから、

目と心を磨いてもっと見えるようにしていかなければ
死があっちから近づいてくる



2016年11月9日水曜日

2016年11月9日

個展について非常に深い洞察による感想をくださった方にやっとお返事ができた
踊る人としての彼女の姿をこのあいだやっと拝見できたのだけれど、
「問いかけ」というキーワードでつながることができたのだなとおもっている


わたしにはこの世は謎しかないので、問いかけずにはおれないのだ、やはり






2016年10月26日水曜日

2016年10月25日

自己(他者)肯定とか自己(他者)否定とかの問題は、
つきつめると「神」(わたしにとっては「宇宙」と同義)への肯定否定ということになっていくと思っていて、
わたしは、神(宇宙)に全信頼をおいている

 世の中にある嫌いなものを好きにはなれないけれど、全ての存在を肯定している、
もしくは、そうしたいから捉え方を工夫しようとする

わたしにはそういう種類の「肯定」がベースにあるから「幸福」なのだけど、
その「肯定」という行為に「善悪」とか「優劣」とかの価値判断が持ち込まれるときに
「不幸」という感覚が始まるんじゃないかと思う

きちんと調べたことがないので解釈があっているのかどうかわからないけど、
アダムのとイブの食べた「善悪の実」ってそういうことなんじゃないかなと思っている
差異と価値の判断がはじまるともう、「楽園」にはいられない

ところが 宇宙の創造物である「わたし」が創造する「作品」をこの世の美術の世界で問うときには
すでに全員が「楽園」の外側にいて、
善悪優劣の価値判断のもとで評価されてしまう

作り手自身も楽園の外からの視点で作品を見、
自分自身を見て嘆いたりする

そういう二重の機構のなかにわたし自身も居て、
なんとか折り合いをつけながらやっている

2016年10月24日

あったかいご飯にありついた しあわせ

牛肉と玉葱と生姜ともやしとたまごを炒めた


野菜が高くて買えない、もやしは救いだ






2016年10月23日日曜日

2016年10月23日

自分のことを 男でもあり女でもあり、

しかしどちらでもない、と感じているのだけど

石川竜一の撮る写真、世界を見る目線に自分と近いものを感じた

写真家とジェンダー、セクシャリティ、

ということを思いながら昨日は眠った









2016年10月21日金曜日

2016年10月21日

ずっと作り続けて

20時ぐらいに一度集中がおおきく途切れて

そのあと23時過ぎまで作り続けて

今は椅子に斜めにもたれてひたすら息を吐いたり吸ったりしている