自己(他者)肯定とか自己(他者)否定とかの問題は、
つきつめると「神」(わたしにとっては「宇宙」と同義)への肯定否定ということになっていくと思っていて、
わたしは、神(宇宙)に全信頼をおいている
世の中にある嫌いなものを好きにはなれないけれど、全ての存在を肯定している、
もしくは、そうしたいから捉え方を工夫しようとする
わたしにはそういう種類の「肯定」がベースにあるから「幸福」なのだけど、
その「肯定」という行為に「善悪」とか「優劣」とかの価値判断が持ち込まれるときに
「不幸」という感覚が始まるんじゃないかと思う
きちんと調べたことがないので解釈があっているのかどうかわからないけど、
アダムのとイブの食べた「善悪の実」ってそういうことなんじゃないかなと思っている
差異と価値の判断がはじまるともう、「楽園」にはいられない
ところが 宇宙の創造物である「わたし」が創造する「作品」をこの世の美術の世界で問うときには
すでに全員が「楽園」の外側にいて、
善悪優劣の価値判断のもとで評価されてしまう
作り手自身も楽園の外からの視点で作品を見、
自分自身を見て嘆いたりする
そういう二重の機構のなかにわたし自身も居て、
なんとか折り合いをつけながらやっている