「創作的な活動をしている人」というふうにみなされると、
「小さい頃どんなふうに育ったの?やっぱり絵がすきだった?」
と尋ねられることがある。
小さなころから、例えば絵を描くことだったり何かを作ったりすることが大好きで、
ただただそこに没頭しつづけていて、気がついたらアーティストになっていた というひともいれば、
辛い現実や、刷り込まれた自己否定感との折り合いをつけるために
(意識的にではなかったとしても結果として)
「表現する」という行為を選ばざるを得なかったひともいるだろうと思う。
私は完全に後者のタイプだったし、美術を志した頃に出会った人たちの殆どが、
同じタイプだったような印象がある。
世代の問題か、あるいはちょっとスピリチュアル風に「共通のまなびのために出会った我々」と解釈しようか。
話をもどすと、だから、私は子ども時代のことはできるだけ思い出したくない。
「楽しい」の意味が分からなかった時代。人生というものは、ただひたすら、嫌なことを我慢してやり続けるものだと思っていた時代。
現在があるのは全ての過去ありきだと心の底から感謝しているつもりはある。
けれどほんとうは、ちょっといじると砂埃のように舞いあがって視界を濁らせる記憶たちが今なお残っているということ、自分でもよくわかっている。
人生にほんの少しでも光を見ようと思えるまでに、私には30年余りの時間が必要だった。
無駄だったとは思わないが、長かった。
そして、長かったが、闇のなかでおぼれたまま人生の終わりを迎えるよりは、
多分ずっとよかったと思う。
私がものを作っている背景をほじくれば、そういったことが芋づる式に掘りおこされてくるけれど、
私自身は今、それをよしとしている。
よしとしているが、これからの子どもたちには、なるべくなら、
あふれる才能そのままを磨きに磨いて、生きるちからがどこまでもみなぎっていくような、
そういう生き方のほうを体験してほしいと、切に思っている。
そして、そういう時代が本当に来ているような気も、している。