コミュニケーションってそもそもなにか、っていう話をすっとばすのだけど、
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。
これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。
わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。
投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。
そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。
そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。
@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。
そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。
2012年10月17日水曜日
2012年10月8日月曜日
10月8日
家族や、身近な人物に対する不満というものについて。
他人に不満を抱く時というのはたいていが、自分自身がおもうように生きられていない時だ
という話があって、わたしは全面的にその意見には賛成なのだけれど、
自分自身にたいする不満を他人にすり替える方法しか知らずに生きているひとにたいして
それを指摘すべきだとも思えず、
いらいらをぶつけられてじっとこらえたり、自分の気もちをきりかえることに集中したりしている。
それってどうなんだろう?
不快なら不快を伝えるのが人間らしいやりかただっていう気もしないでもない。
そういう、人によってはあたりまえのようなことにちょくちょくと悩む。
だけれども、
もしもなにか文句をたれるとしたら、いまわたしはこれを言いたいということがひとつある。
それは、
自分を大事にして、自分を喜ばせて、自分をいい気分にさせてあげることのできるのは、
結局自分自身しかいないのだし、
それが自分に責任をもつことでもあり、自分を大切にするということでもあるのであって、
他人が自分の思うようにしてくれなくて自分を気もちよくしてくれない、
ということのみに注目して、不満というきもちの悪い空気を充満させていくことは、
なんて他人に甘えた依存的なやりかたなんだろう、
っていうことだ。
でも、わたしもずうっとそうやって甘えて甘えて、
それが甘えだってことをしらずに生きてきたときがあったのだから、
このほど特につよくつよくそう思うようになったからと言って、
誰かに言えることではないのだった。
他人に不満を抱く時というのはたいていが、自分自身がおもうように生きられていない時だ
という話があって、わたしは全面的にその意見には賛成なのだけれど、
自分自身にたいする不満を他人にすり替える方法しか知らずに生きているひとにたいして
それを指摘すべきだとも思えず、
いらいらをぶつけられてじっとこらえたり、自分の気もちをきりかえることに集中したりしている。
それってどうなんだろう?
不快なら不快を伝えるのが人間らしいやりかただっていう気もしないでもない。
そういう、人によってはあたりまえのようなことにちょくちょくと悩む。
だけれども、
もしもなにか文句をたれるとしたら、いまわたしはこれを言いたいということがひとつある。
それは、
自分を大事にして、自分を喜ばせて、自分をいい気分にさせてあげることのできるのは、
結局自分自身しかいないのだし、
それが自分に責任をもつことでもあり、自分を大切にするということでもあるのであって、
他人が自分の思うようにしてくれなくて自分を気もちよくしてくれない、
ということのみに注目して、不満というきもちの悪い空気を充満させていくことは、
なんて他人に甘えた依存的なやりかたなんだろう、
っていうことだ。
でも、わたしもずうっとそうやって甘えて甘えて、
それが甘えだってことをしらずに生きてきたときがあったのだから、
このほど特につよくつよくそう思うようになったからと言って、
誰かに言えることではないのだった。
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