昼間 やばすぎるスケジュールを練り直しにマクドナルドへいこうと思ったが
近所のスーパーの中のマクドナルドは床がゴミだらけなので
コンビニでカフェオレを買って公園へ行くことにした
日当たりの良すぎるベンチでコンビニのシュークリームをたべていたら鳩が恐ろしいほど寄ってきた
桜の樹上はもう隙間だらけで
精神を病んだ人が怒鳴ったり笑ったりしながらぐるぐる徘徊していた
小さい女の子がへんな愛想の良さで私に何か言いながら寄ってきた
後でわかったのは大人にはお菓子を貰えると思っているみたいだということ
他のお年寄りにお菓子を与えられていた
弟らしき子どもも同じようにしていた
スーツを着た人がベンチで居眠りをしていた
足元はゴミだらけだった
量からしてその人ひとりの出したゴミではない
きっと花見にきた人が散らかしていったのだ
スーツの人は気にならないくらい疲れていたのかゴミの中で眠っていた
私の住む地域にはゴミをちらかしていく人がとても多い
落ち着かないがそれでも家の中よりはましだ
目には見えない日焼けをしながらスケジュールを練った
2014年4月11日金曜日
2014年3月31日月曜日
ホームページのようなものをつくりました
ながらく日記を書いていなくて、
この場所で自分はどんな感じの人物として存在していたかよく思い出せなくなっているけれど、
ともあれ、お久しぶりです。
と、誰に言っているのかな、よくわからないけれど。
でも、この場所もまた、すこしずつすこしずつ、生き続けさせていこうとおもいます。
この日記を書いていないあいだに、Fool's journeyという名前のアクセサリーブランドでの活動に力を入れはじめていました。
活動はこれからが本番というところでもあります。
それで今日は、ちょっとしたホームページのようなものを作ってみました。
http://gushanotabi.wordpress.com/
この日記もリンクしています。
どうぞよろしくお願いもうしあげます。
この場所で自分はどんな感じの人物として存在していたかよく思い出せなくなっているけれど、
ともあれ、お久しぶりです。
と、誰に言っているのかな、よくわからないけれど。
でも、この場所もまた、すこしずつすこしずつ、生き続けさせていこうとおもいます。
この日記を書いていないあいだに、Fool's journeyという名前のアクセサリーブランドでの活動に力を入れはじめていました。
活動はこれからが本番というところでもあります。
それで今日は、ちょっとしたホームページのようなものを作ってみました。
http://gushanotabi.wordpress.com/
この日記もリンクしています。
どうぞよろしくお願いもうしあげます。
2013年5月19日日曜日
5月18日
「ぼくらの場合は、まず自分を疑ってるところから始まるじゃないですか、『自分がいちばん、しょうもない』じゃないですか」
とにこにこしながら言う彼の
その言い回しがやっぱりすごくうまい、ということと、
あれだけのことをやっている彼でさえ、そこからはじまっていたのかということ、
2つのことにおいて2倍に感心した。
とにこにこしながら言う彼の
その言い回しがやっぱりすごくうまい、ということと、
あれだけのことをやっている彼でさえ、そこからはじまっていたのかということ、
2つのことにおいて2倍に感心した。
2012年12月16日日曜日
12月16日
昨日、ゆかちゃんと、「モンサントの不自然なたべもの」を観た。
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。
この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。
ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。
ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。
ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。
なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。
いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。
「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。
この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。
ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。
ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。
ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。
「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、
世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。
なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。
いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。
「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」
そうそう、まさに、それそれ。
どんなにあいいれない相手の考えにも、
その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。
でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…
2012年10月17日水曜日
10月14日
コミュニケーションってそもそもなにか、っていう話をすっとばすのだけど、
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。
これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。
わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。
投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。
そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。
そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。
@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。
そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。
これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。
わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。
投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。
そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。
そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。
@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。
そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。
2012年10月8日月曜日
10月8日
家族や、身近な人物に対する不満というものについて。
他人に不満を抱く時というのはたいていが、自分自身がおもうように生きられていない時だ
という話があって、わたしは全面的にその意見には賛成なのだけれど、
自分自身にたいする不満を他人にすり替える方法しか知らずに生きているひとにたいして
それを指摘すべきだとも思えず、
いらいらをぶつけられてじっとこらえたり、自分の気もちをきりかえることに集中したりしている。
それってどうなんだろう?
不快なら不快を伝えるのが人間らしいやりかただっていう気もしないでもない。
そういう、人によってはあたりまえのようなことにちょくちょくと悩む。
だけれども、
もしもなにか文句をたれるとしたら、いまわたしはこれを言いたいということがひとつある。
それは、
自分を大事にして、自分を喜ばせて、自分をいい気分にさせてあげることのできるのは、
結局自分自身しかいないのだし、
それが自分に責任をもつことでもあり、自分を大切にするということでもあるのであって、
他人が自分の思うようにしてくれなくて自分を気もちよくしてくれない、
ということのみに注目して、不満というきもちの悪い空気を充満させていくことは、
なんて他人に甘えた依存的なやりかたなんだろう、
っていうことだ。
でも、わたしもずうっとそうやって甘えて甘えて、
それが甘えだってことをしらずに生きてきたときがあったのだから、
このほど特につよくつよくそう思うようになったからと言って、
誰かに言えることではないのだった。
他人に不満を抱く時というのはたいていが、自分自身がおもうように生きられていない時だ
という話があって、わたしは全面的にその意見には賛成なのだけれど、
自分自身にたいする不満を他人にすり替える方法しか知らずに生きているひとにたいして
それを指摘すべきだとも思えず、
いらいらをぶつけられてじっとこらえたり、自分の気もちをきりかえることに集中したりしている。
それってどうなんだろう?
不快なら不快を伝えるのが人間らしいやりかただっていう気もしないでもない。
そういう、人によってはあたりまえのようなことにちょくちょくと悩む。
だけれども、
もしもなにか文句をたれるとしたら、いまわたしはこれを言いたいということがひとつある。
それは、
自分を大事にして、自分を喜ばせて、自分をいい気分にさせてあげることのできるのは、
結局自分自身しかいないのだし、
それが自分に責任をもつことでもあり、自分を大切にするということでもあるのであって、
他人が自分の思うようにしてくれなくて自分を気もちよくしてくれない、
ということのみに注目して、不満というきもちの悪い空気を充満させていくことは、
なんて他人に甘えた依存的なやりかたなんだろう、
っていうことだ。
でも、わたしもずうっとそうやって甘えて甘えて、
それが甘えだってことをしらずに生きてきたときがあったのだから、
このほど特につよくつよくそう思うようになったからと言って、
誰かに言えることではないのだった。
2012年9月30日日曜日
9月29日
先日検査に行ってきた母に、ちょっとした病気が見つかったという。
咄嗟に、わたしのせいも何割かは入っているのだろうな、と思う。
母は苦言をいわなくなったけど。
いろんな意味で期待されてわたしは生まれ、育てられ、
いろんな意味でいま失望されているのを、わたしは知っているからだ。
親だし、子だし、仕方がないことなんだろうとは思う。
仕方がないけど、わたしは母ではないのだった。
期待というものを、(それがあったとしての話だけれど)
ある程度知らんぷりしないと、わたしはいられなくなるから、
少し、知らんぷりして、
そしてできる親孝行というものを考えよう、と思って、
でもまだ感情は追いつかなくて、胸が痛くなったりして、
いつもほどごはんがおいしくなかったのだった。
咄嗟に、わたしのせいも何割かは入っているのだろうな、と思う。
母は苦言をいわなくなったけど。
いろんな意味で期待されてわたしは生まれ、育てられ、
いろんな意味でいま失望されているのを、わたしは知っているからだ。
親だし、子だし、仕方がないことなんだろうとは思う。
仕方がないけど、わたしは母ではないのだった。
期待というものを、(それがあったとしての話だけれど)
ある程度知らんぷりしないと、わたしはいられなくなるから、
少し、知らんぷりして、
そしてできる親孝行というものを考えよう、と思って、
でもまだ感情は追いつかなくて、胸が痛くなったりして、
いつもほどごはんがおいしくなかったのだった。
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