「創作的な活動をしている人」というふうにみなされると、
「小さい頃どんなふうに育ったの?やっぱり絵がすきだった?」
と尋ねられることがある。
小さなころから、例えば絵を描くことだったり何かを作ったりすることが大好きで、
ただただそこに没頭しつづけていて、気がついたらアーティストになっていた というひともいれば、
辛い現実や、刷り込まれた自己否定感との折り合いをつけるために
(意識的にではなかったとしても結果として)
「表現する」という行為を選ばざるを得なかったひともいるだろうと思う。
私は完全に後者のタイプだったし、美術を志した頃に出会った人たちの殆どが、
同じタイプだったような印象がある。
世代の問題か、あるいはちょっとスピリチュアル風に「共通のまなびのために出会った我々」と解釈しようか。
話をもどすと、だから、私は子ども時代のことはできるだけ思い出したくない。
「楽しい」の意味が分からなかった時代。人生というものは、ただひたすら、嫌なことを我慢してやり続けるものだと思っていた時代。
現在があるのは全ての過去ありきだと心の底から感謝しているつもりはある。
けれどほんとうは、ちょっといじると砂埃のように舞いあがって視界を濁らせる記憶たちが今なお残っているということ、自分でもよくわかっている。
人生にほんの少しでも光を見ようと思えるまでに、私には30年余りの時間が必要だった。
無駄だったとは思わないが、長かった。
そして、長かったが、闇のなかでおぼれたまま人生の終わりを迎えるよりは、
多分ずっとよかったと思う。
私がものを作っている背景をほじくれば、そういったことが芋づる式に掘りおこされてくるけれど、
私自身は今、それをよしとしている。
よしとしているが、これからの子どもたちには、なるべくなら、
あふれる才能そのままを磨きに磨いて、生きるちからがどこまでもみなぎっていくような、
そういう生き方のほうを体験してほしいと、切に思っている。
そして、そういう時代が本当に来ているような気も、している。
2014年6月11日水曜日
2014年6月6日金曜日
2014年4月11日金曜日
2014年4月11日
昼間 やばすぎるスケジュールを練り直しにマクドナルドへいこうと思ったが
近所のスーパーの中のマクドナルドは床がゴミだらけなので
コンビニでカフェオレを買って公園へ行くことにした
日当たりの良すぎるベンチでコンビニのシュークリームをたべていたら鳩が恐ろしいほど寄ってきた
桜の樹上はもう隙間だらけで
精神を病んだ人が怒鳴ったり笑ったりしながらぐるぐる徘徊していた
小さい女の子がへんな愛想の良さで私に何か言いながら寄ってきた
後でわかったのは大人にはお菓子を貰えると思っているみたいだということ
他のお年寄りにお菓子を与えられていた
弟らしき子どもも同じようにしていた
スーツを着た人がベンチで居眠りをしていた
足元はゴミだらけだった
量からしてその人ひとりの出したゴミではない
きっと花見にきた人が散らかしていったのだ
スーツの人は気にならないくらい疲れていたのかゴミの中で眠っていた
私の住む地域にはゴミをちらかしていく人がとても多い
落ち着かないがそれでも家の中よりはましだ
目には見えない日焼けをしながらスケジュールを練った
近所のスーパーの中のマクドナルドは床がゴミだらけなので
コンビニでカフェオレを買って公園へ行くことにした
日当たりの良すぎるベンチでコンビニのシュークリームをたべていたら鳩が恐ろしいほど寄ってきた
桜の樹上はもう隙間だらけで
精神を病んだ人が怒鳴ったり笑ったりしながらぐるぐる徘徊していた
小さい女の子がへんな愛想の良さで私に何か言いながら寄ってきた
後でわかったのは大人にはお菓子を貰えると思っているみたいだということ
他のお年寄りにお菓子を与えられていた
弟らしき子どもも同じようにしていた
スーツを着た人がベンチで居眠りをしていた
足元はゴミだらけだった
量からしてその人ひとりの出したゴミではない
きっと花見にきた人が散らかしていったのだ
スーツの人は気にならないくらい疲れていたのかゴミの中で眠っていた
私の住む地域にはゴミをちらかしていく人がとても多い
落ち着かないがそれでも家の中よりはましだ
目には見えない日焼けをしながらスケジュールを練った
2014年3月31日月曜日
ホームページのようなものをつくりました
ながらく日記を書いていなくて、
この場所で自分はどんな感じの人物として存在していたかよく思い出せなくなっているけれど、
ともあれ、お久しぶりです。
と、誰に言っているのかな、よくわからないけれど。
でも、この場所もまた、すこしずつすこしずつ、生き続けさせていこうとおもいます。
この日記を書いていないあいだに、Fool's journeyという名前のアクセサリーブランドでの活動に力を入れはじめていました。
活動はこれからが本番というところでもあります。
それで今日は、ちょっとしたホームページのようなものを作ってみました。
http://gushanotabi.wordpress.com/
この日記もリンクしています。
どうぞよろしくお願いもうしあげます。
この場所で自分はどんな感じの人物として存在していたかよく思い出せなくなっているけれど、
ともあれ、お久しぶりです。
と、誰に言っているのかな、よくわからないけれど。
でも、この場所もまた、すこしずつすこしずつ、生き続けさせていこうとおもいます。
この日記を書いていないあいだに、Fool's journeyという名前のアクセサリーブランドでの活動に力を入れはじめていました。
活動はこれからが本番というところでもあります。
それで今日は、ちょっとしたホームページのようなものを作ってみました。
http://gushanotabi.wordpress.com/
この日記もリンクしています。
どうぞよろしくお願いもうしあげます。
2013年5月19日日曜日
5月18日
「ぼくらの場合は、まず自分を疑ってるところから始まるじゃないですか、『自分がいちばん、しょうもない』じゃないですか」
とにこにこしながら言う彼の
その言い回しがやっぱりすごくうまい、ということと、
あれだけのことをやっている彼でさえ、そこからはじまっていたのかということ、
2つのことにおいて2倍に感心した。
とにこにこしながら言う彼の
その言い回しがやっぱりすごくうまい、ということと、
あれだけのことをやっている彼でさえ、そこからはじまっていたのかということ、
2つのことにおいて2倍に感心した。
2012年12月16日日曜日
12月16日
昨日、ゆかちゃんと、「モンサントの不自然なたべもの」を観た。
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。
この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。
ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。
ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。
ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。
なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。
いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。
「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。
この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。
ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。
ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。
ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。
「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、
世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。
なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。
いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。
「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」
そうそう、まさに、それそれ。
どんなにあいいれない相手の考えにも、
その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。
でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…
2012年10月17日水曜日
10月14日
コミュニケーションってそもそもなにか、っていう話をすっとばすのだけど、
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。
これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。
わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。
投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。
そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。
そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。
@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。
そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。
コミュニケーションにはいろいろなかたちがあるみたいだ。
いろんなコミュニケーションの方法があって、方法に対する個人個人の解釈もあって、
自分にとってここちのいいやりかたをえらぶことができる。
これまでいくつかのコミュニケーションツールをつかってみて、
それをつかういろんなひとのいろんなやりかたをみて、
わたしがここちのいいのがどんなやりかたか、ちょっとずつわかってきた。
わたしはやっぱり、基本的に、キャッチボールが好きだ。
スカッシュみたいな瞬速でなく、(スカッシュをやってみたこともないのだけれど)
受け取ったボールをちょっとだけみつめるくらいの間があって、
そして、投げ返されてくる。
お互いが、お互いをみて、お互いにむけて、投げ合われるボール。
投げ合うなら、そういうのがいいなあと思えてきた。
誰がみているかわからないところで、誰にむかってなげられているのかわからないボールがあったって、もちろんいい。
そういうことが必要なときがある。
そういうことがあったって、もちろんいい。
ひとの考えや立場のちがいをよくこころえて、
受け入れるベースとたっぷりのユーモアをもったひとのことばは、
たとえそれが不特定多数のひとにむけられていても、
とても近しい。
近しさに、おもわずほくそ笑んでしまう。
そういった、かしこいひとのいうことを心からたのしみながら、
ただ、なんとなく今は、
自分のなかの声と、
そして、きちんとわたしにむけて話される言葉のほうに、
より耳をすませたい。
@ がつくかつかないか、これはとてもおおきなちがいだ。
機能性にメンタリティが付加される、とてもおもしろいマークだなあと、
このごろしみじみ感心していたのだった。
そういうことを、こうして、誰がみているかわからない場所で書いているわたしのことを、
ちょっと、わらいながら書いている。
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