2015年3月18日水曜日

「おとなのオリーブ」

中学生から高校生にかけて、
本もそれなりに好きだったが、断然わくわくさせられていたのは「オリーブ」という雑誌のほうだったと思う。
毎月3日と18日に300円で買うこの雑誌が楽しみでたまらず、置いてるはずも無いのに前々日くらいから本屋をのぞいていた。
執念ぶかく隅々まで活字を追い、何度も読み返したから、どこのブランドやお店ではどんなお洋服や雑貨があってそれはだいたいどのくらいの値段がついているのか、殆ど頭に入っていたとおもう。
あの頃実際に自分で買えた・買ったものは、たぶんひとつもない。

ヘアメイクさんとかスタイリストさんとかいう職業があるということもこの雑誌で知ったのだけれど、そのうちに、ぱっと写真を見れば、あぁこれは誰々さんのスタイリングだな、なんてあてられるようにもなっていた。

どきっとか、ぞくっとか、させられるスタイリングはいつも大森伃佑子さんの仕業だった。20年以上たっても、やっぱりどきっとさせられた今号のページのクレジットをチェックするとやっばり大森さんのスタイリングだ、それがうれしい。
大森さんとはある意味正反対な岡尾さんのスタイリングも、同時に好きだった。

ファッションの道へ進みたいなんていう気持ちはこれっぽっちもなかったくせに、なんだったのだろう、あのむさぼり加減。けれど、目的意識がなにひとつなかったからこそ、そうやって吸収したものたちは、なにかしら、わたしにとっての「ある目線」を形成したのではないかという気がする。

ファッションは、ファッションのみで終わらないんだってことも、なんとなくこの雑誌から刷り込まれたような気がする。
1987年7月3日号には「原子力発電は、ほんとうに安全なの?」っていう特集もあったみたい。
その頃まだギリギリ小学生で買えてなかった。
持ってたやつは全部捨ててしまった、なんてもったいなかったんだろ。

女の子が、自分の意志を貫きとおして生きる、ってことを、発見させてくれ、手助けしてくれた、そういう雑誌だったんだと思う。
粋な雑誌、だったな。

2014年6月11日水曜日

2014年6月12日

 「創作的な活動をしている人」というふうにみなされると、
「小さい頃どんなふうに育ったの?やっぱり絵がすきだった?」
と尋ねられることがある。

  小さなころから、例えば絵を描くことだったり何かを作ったりすることが大好きで、
ただただそこに没頭しつづけていて、気がついたらアーティストになっていた というひともいれば、
辛い現実や、刷り込まれた自己否定感との折り合いをつけるために
(意識的にではなかったとしても結果として)
「表現する」という行為を選ばざるを得なかったひともいるだろうと思う。

 私は完全に後者のタイプだったし、美術を志した頃に出会った人たちの殆どが、
同じタイプだったような印象がある。
世代の問題か、あるいはちょっとスピリチュアル風に「共通のまなびのために出会った我々」と解釈しようか。
 
  話をもどすと、だから、私は子ども時代のことはできるだけ思い出したくない。
「楽しい」の意味が分からなかった時代。人生というものは、ただひたすら、嫌なことを我慢してやり続けるものだと思っていた時代。

  現在があるのは全ての過去ありきだと心の底から感謝しているつもりはある。
けれどほんとうは、ちょっといじると砂埃のように舞いあがって視界を濁らせる記憶たちが今なお残っているということ、自分でもよくわかっている。

 人生にほんの少しでも光を見ようと思えるまでに、私には30年余りの時間が必要だった。
無駄だったとは思わないが、長かった。
そして、長かったが、闇のなかでおぼれたまま人生の終わりを迎えるよりは、
多分ずっとよかったと思う。

 私がものを作っている背景をほじくれば、そういったことが芋づる式に掘りおこされてくるけれど、
私自身は今、それをよしとしている。

 よしとしているが、これからの子どもたちには、なるべくなら、
あふれる才能そのままを磨きに磨いて、生きるちからがどこまでもみなぎっていくような、
そういう生き方のほうを体験してほしいと、切に思っている。
そして、そういう時代が本当に来ているような気も、している。

2014年6月6日金曜日

2014年6月6日

おかしな部分で潔癖で
腹がたっている時は物を作りたくない。
腹がたっている気分が物に移ってしまう気がして。
それをひとに触れさせたくない。

2014年4月11日金曜日

2014年4月11日

昼間 やばすぎるスケジュールを練り直しにマクドナルドへいこうと思ったが
近所のスーパーの中のマクドナルドは床がゴミだらけなので
コンビニでカフェオレを買って公園へ行くことにした
日当たりの良すぎるベンチでコンビニのシュークリームをたべていたら鳩が恐ろしいほど寄ってきた

桜の樹上はもう隙間だらけで
精神を病んだ人が怒鳴ったり笑ったりしながらぐるぐる徘徊していた
小さい女の子がへんな愛想の良さで私に何か言いながら寄ってきた
後でわかったのは大人にはお菓子を貰えると思っているみたいだということ
他のお年寄りにお菓子を与えられていた
弟らしき子どもも同じようにしていた

スーツを着た人がベンチで居眠りをしていた
足元はゴミだらけだった
量からしてその人ひとりの出したゴミではない
きっと花見にきた人が散らかしていったのだ
スーツの人は気にならないくらい疲れていたのかゴミの中で眠っていた
私の住む地域にはゴミをちらかしていく人がとても多い

落ち着かないがそれでも家の中よりはましだ
目には見えない日焼けをしながらスケジュールを練った

2014年3月31日月曜日

ホームページのようなものをつくりました

ながらく日記を書いていなくて、
この場所で自分はどんな感じの人物として存在していたかよく思い出せなくなっているけれど、
ともあれ、お久しぶりです。
と、誰に言っているのかな、よくわからないけれど。

でも、この場所もまた、すこしずつすこしずつ、生き続けさせていこうとおもいます。

この日記を書いていないあいだに、Fool's journeyという名前のアクセサリーブランドでの活動に力を入れはじめていました。
活動はこれからが本番というところでもあります。

それで今日は、ちょっとしたホームページのようなものを作ってみました。

http://gushanotabi.wordpress.com/

この日記もリンクしています。
どうぞよろしくお願いもうしあげます。

2013年5月19日日曜日

5月18日

 「ぼくらの場合は、まず自分を疑ってるところから始まるじゃないですか、『自分がいちばん、しょうもない』じゃないですか」
とにこにこしながら言う彼の
その言い回しがやっぱりすごくうまい、ということと、
あれだけのことをやっている彼でさえ、そこからはじまっていたのかということ、
2つのことにおいて2倍に感心した。


2012年12月16日日曜日

12月16日

昨日、ゆかちゃんと、「モンサントの不自然なたべもの」を観た。
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。

この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。

ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。

ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。

ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。

「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、

世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。

なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。

いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。

「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」

そうそう、まさに、それそれ。

どんなにあいいれない相手の考えにも、

その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。

でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…


などと思いながら、多肉植物の土を買って、帰る。

夜に友人からメール。

ある候補者が当選したので、
それについて、ありがとうと書いてある。

わたしは少し考えて、返信した。

「いえいえ、わたし、あなたのことは友だちだと思ってるけど、それとはべつに、選挙はじぶんの考えをつらぬかせてもらっているので、あしからずよろしくね」

すると、返信がやってきた。

「それでいいんだよ!こちらもつらぬかせてもらうから、覚悟してね」と。

ふむふむ、なんかヘンだけど、こやつとの友情はつづいていくのだな、と思う。

わたしが投票した候補者は、落選したのだった。

買ってきた土で、多肉植物をあたらしい鉢に植えかえた。