2011年10月17日月曜日

10月2日

じんましんをだしてふうふう息をしながらもスーパーへ行った。
どうしても、の用事があったから。
今年の春、ヒヤシンスを咲かせられなくてとてもかなしく残念だったので、
来年こそは咲かせたかったから。
今年の春は、ただ部屋にヒヤシンスが咲いていないというだけで、春を待ちのがしたような気持ちでいっぱいになり、
インターネットでヒヤシンスの水栽培の写真をたくさん検索して片っ端からながめて、
よけいに惜しい気持ちになったりしていたのだった。

あの頃は、つぎのヒヤシンスまで待つなんて、永遠のように先の未来だと感じていたのに、
いつの間にやら、もう目の前に球根が並んでる。

しゃがみこんで色に迷いながら、
水栽培用の、なるべく大きいのを買った。
季節にはいってすぐに買いに行ったので、大きな球根が手に入った。
白いのと、青いのと、ピンクのと、赤の球根。
今年は、そういう色の気分らしい。
どういう気分なんだろう。

夜、ひさびさにルガンスキーの演奏するラフマニノフのピアノコンチェルトをきいた。
去年いちばん多くきいたCDだ。

10月1日

夢でいちばんあざやかに見るのは、赤い血の色。
このごろ、大量の血の夢をよくみる。
それが実のところ何を意味するのかはわからないけれど、
起きたあとには、なにやら憑き物がおちたみたいな、
ある意味で爽やかともいえる気分になる。

2011年10月2日日曜日

9月30日

きのう思ったことをなんどもくりかえし、おもってみる。

乗っていた道が、どこかべつの層をはしっている道につなぎかえられて、
がこーん、と、はまったような感覚がしている、
おとといあたりから。

もし、あのひとがいなくなっていなかったら、それはおこらなかったのだろうか、
もし、あのひとがいなくなっていなくても、それはおこったのだろうか、
などと
どうしても考えてしまい、しかし、

あのひとがいなくなったということも、
「がこーん」のうちにあったのだろう、
というところにおちついた、きょうのところは。

この「がこーん」は、おおきいから、
まだしばらくゆれてもしかたない。

9月29日

かわってもべつにいいし、
むりにかわったりもしなくても、
いいし。
と、思った。

ブログのサブタイトルをあらためて読んで、
ああ、じぶんで思ってたのに、わすれてるときもあるのよ。
と、思った。

2011年10月1日土曜日

9月28日

ぴたーっと、鏡みたいにしずかな湖、っぽい日だ。
と、朝、おもった。
きのうから、新月だった。

事務所のドアをあけたときも、そんな空気だった。

あれは、社長がその年齢のわりには非常に豊かな包容力を発揮しているせいだ
とわたしはいつでもおもうのだけど、
いつものお客さんも、あたらしいお客さんも、
たいてい、社長に会いに来たひとは、誰もが、
本題のあとにぴろぴろっと、本音やら秘密やらをうちあけて帰っていくのである。

「僕、リコンしたんですよー こないだ。」
とかいう話をしていくひともなかにはいて、
そういうとき、わたしは自分の存在感を瞬時に消すようにしている。

ときどき、みえないところに回って吹きだしてしまっていることも、ある。

9月27日

午前、漢方医を受診して薬を処方してもらう。
薬を飲みだして17年目になる。
午後、洋裁の学校を見学に行く。
帰って夕飯を用意して、ひさしぶりにピアノをひいた。
腕の筋肉がすっかり萎えて、指もちっともうごかなかったけれど、
ひとつのフレーズをなんどもなんども練習するのがここちよかった。

母がかえってきて、ひさしぶりに二人で会話しながら夕食をとった。
「結婚しないでずっとひとりで暮らしてて、歳をとってから精神病になる女の人が最近多い気がするわ。」
と話し出す母の職場は、とある老人保健施設なのだけれども。
同じような話、前にもきいたよな。。。と思う。

私「まあ、もともとその気があって、結婚できなかったのかもしれないけどね」
母「そうかな・・・そういう人、どこ(の施設)も引き取り手がないから困るんよね。
       うちでも、今日、断ったんよ。」
私「そうね。今は、無いよね。」
(わたしは病院ではたらいていたのでそのあたりの事情はほんの少しだけ想像ができるのだった)
母「でも、これから、独身のまま歳とってく女の人はどんどん増えるでしょ」
私「うん。多くなるよ。でも、私たちの世代になれば、そういう人ばっかりの施設みたいなのもできるんじゃない?
  あと、ゲイのひとの、と。それで、みんなで助け合っていきていくから。笑」
母「そうやね。助け合って、ねえ 笑」

はい、たすけあって、いきますから。
だめならだめで、しょうがない。

あの日からちょうど2か月がたった。

9月26日

だれもいない家で、ゆっくりとすごした。
しずかな部屋で、しずかにしずかにすごした。

それから、
この2ヶ月あまり、いったいわたしはどこにいたのだろう とおもいながら、
カードをえらび、ならべた。


どうやら、わたしは、この数ヶ月、じぶんが変わってしまうのが、こわかったらしい。
じぶんのなかで、ないことにしていたようなもののいろいろが目の前にあらわれてきて、
それをじぶんの一部にするのがこわくて、
それがじぶんのものになることがみとめられないような状況をいっぱいじぶんでつくってみたりして、
いたらしい。
(こんな表現ではなんのことだかさっぱりわからないでしょうけれど。すみません。)

まあ、それだって、わたしの勝手な解釈なので、誰に説明するためのものでもないのだけれど、
わたしはなんだか、ぐちゃぐちゃにからみあった糸がするするっと解けていったきもちになった。

はあ、なんだ、それだけのことか、とおもった。
それだけのことだったのに、うずのなかにいると、何もみえなかった。
波にのまれたじぶんの脚がぐにゃんとなって、息がくるしい、ぐらいのことしか、わからなかった。
ただ、こわくなると、あんなにも、自分を否定することばがとめどなく、
こころのなかに湧いてくるんだな ってことを知った。
そんなにこわかったのか、変わるのが。

こういうことはまたくるかもしれないし、こないかもしれないけれど、
こんなふうになった、ということを、
なかったことにはしないでおこう。と思った。

注文していた、来年ようの手帖がとどいた。