テディが去った後もニコルソンは、数分間は身動きもせず、両手を椅子の肘掛けにのせ、左手の指には火をつけぬ煙草をまだ挟んだままで座っていた。が、そのうちに右手を持ち上げると、ワイシャツの襟が開いているのをたしかめるように、襟もとをまさぐった。それから煙草に火をつけ、ふたたび身動きもしないで坐っていた。
彼はその煙草をもとまで吸い終ると、やにわに片足をデッキ・チェアの横へ踏み出して煙草を踏みつけ、立ち上がって急ぎ足に通路から出て行った。
彼は船首寄りの階段をかなりの早足で降りて遊歩甲板へ出た。それからそのまま足を止めずに、同じような早足で、一気に主甲板へ下り、続いてAデッキ、Bデッキ、Cデッキ、Dデッキと下りて行った。
Dデッキでその階段は終っていた。ニコルソンは方向の見当がつかぬ様子でしばらく立っていたが、そのうちにそれを教えてくれそうな人間が見つかった。廊下の途中に調理室の戸口があって、その外に椅子を置いて一人のスチュワデスが煙草を吸いながら雑誌を読んでいたのである。ニコルソンはそこへ行って知りたいことだけを手短かに尋ね、礼を言うと、さらに数歩船首の方へ歩いて行って、「プール入口」と書いた金属製の重い扉を開けた。するとそこは、狭い、むき出しの階段になっていた。
ニコルソンがその階段を中ほどまで下りるか下りないうちである、つんざくような悲鳴が長く尾を曵いて聞えた--------幼い女の子の声に違いない。それは四方をタイルで張った壁に反響するような、遠くまで鋭く響き渡る悲鳴であった。
(J.D.サリンジャー 著 野崎孝 訳 「テディ」)
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