でもそれと同時に、喫煙が何年ものあいだ彼らの救いになっていたとも思う。
結婚して何年も経たないうちに(何年の何月に二人が結婚したのか、正確にはついにわからずじまいだった。二人は一度も、少なくとも私や姉や兄の記憶する限り、結婚記念日を祝うどころか、それを口にしたことすらなかった)、父と母両方にとって、一緒に暮らすのはひどく不幸なことになってしまった。煙草を喫うことで、二人とも一息つけて、みじめな生活からつかのま逃れられたのだ。煙草が喫える、と思うとそれが楽しみになった。二人ともそれぞれ別々に、私たち子供から、騒々しさから、うんざりするいろんなことから逃れて、静かに一服できたのだ。あるいは二人とも、それぞれ別々に、母が海軍の売店で買っておいたカートンがなくなったときに食料雑貨店まで車を走らせて、帰り道は精一杯ゆっくり帰ってこれた。喫煙とは、かつては二人で一緒に味わった楽しみだったけれど、いまではそれぞれ一人で味わうようになった楽しみだった。煙草を喫っていれば、父は自分だけのために何かをしていられたし、自分は強くてタフなんだ、戦争の英雄なんだと想像することができた。煙草を喫っていれば、母も自分だけのために何かをしていられたし、自分が何ものにも動じない人間なんだ、映画に出てくる女みたいに平然としたクールな女なんだと想像することができた。二人はそれぞれ、違う人生を想像することができた。自分のどうしようもなくひどい人生が、どうしようもなくひどくはないんだとそれぞれ想像することができた。
私はそのことをありがたく思う。つらい年月を両親が生き抜く上で何か助けがあったことをありがたく思う。二人とも煙草をやめるくらい長生きしたこと、そして最後は、ごく短い時期であれ、息絶えるまで幸せに生きたことを私はありがたく思う。
(レベッカ・ブラウン 著 柴田元幸 訳 「煙草を喫う人たち」 2004年)