出会う大人をことごとくダメだと見る王子さまにとって、話の通じる相手は地球で出会った狐や蛇だけで、とくに狐は、反大人としての立場を明確に説明してくれる哲学教師のような存在です。王子さまが一緒に遊ぼうといったときに、狐は、「君とは遊べない、自分はまだ飼いならされていないから(Je ne suis pas apprivoise.)」といいます。狐はapprivoiser(英語ではtame)という動詞を受け身で使い、「自分はapprivoiserされていない」というのです。ここは「仲良しになる」と曖昧に訳しておきましたが、apprivoiserとは、もともと人が動物を「飼いならす」ことです。餌をやるなど、必要な世話をして飼う。その結果人間に馴れて従順になった動物が家畜やペットです。飼いならされた相手は人間を恐がらなくなる。人間もその相手、たとえばペットを可愛いと思って愛玩する。狐は王子さまに「飼いならしてほしい」といいますが、これは、「自分を飼いならして愛人のような関係を結んでほしい」ということです。
王子さまが自分の星で面倒をみていたという花も、実は同じような存在なのです。しかし、この花の愛人はなかなかわがままで要求が多いので、王子さまはついに嫌気がさして、彼女を捨て、彼女から逃れてほかの星を巡歴する旅に出た、ということです。王子さまを無邪気な天使のような子供だと思って読んでいると、あれあれ、これは男(もちろん大人)がよくやることではないかと気がついて、にやりとしそうになります。それにしても、相手を「飼いならして」わがものにし、ペットのように、バラの花のように、大事にして愛玩する--------これこそ理想の男女関係だというのは、たしかに現実の世界では通用しないことで、こんなことを大まじめに考えるのが、自分のなかにいる子供、反大人の自分なのです。本物の子供には、他人を「飼いならす」というようなことは理解もできないでしょう。
そんなわけで、この小説は、子供が書いたものでもなく、子供のためのものでもなく、四十歳を過ぎた男が書いた、大人のための小説です。これを読んで大量の涙が出てくるというのはちょっと変わった読み方で、それよりも、この小説は、大人が自分のなかにいる子供の正体を診断するのに役立ちそうです。この作品が広くかつ長く読まれて来た秘密の一つはそこにあるのではないかと思います。
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著 倉橋由美子 訳 「星の王子さま」より
「訳者あとがき」 2005年6月)