ちょうどこの時地下室の扉がキューンと開いて、それは非常に軽く、爽やかに響く音であった。これは土田九作氏の心もまた爽やかなしるしであった。なぜならばここはもう地下室アントンの領分である。土田九作は、踏幅のひろい階段を、一つ一つ、ゆっくりと踏んで降りた。数は十一段であった。人間とは、自ら非常に哀れな時と、空白なまで心の爽やかな時に階段の数を知っている。
土田九作はもう一つあった椅子に掛けて、
「今晩は。僕は、途中、風に吹かれて来ました。あなたですか、小野町子が失恋をしているのは」
幸田氏は答えた。(松木氏は、椅子の背に自身の背を凭せかけて、恋愛会話に加わらなかった。代りに煙草を吸いはじめていた。けむりは氏の顔から二尺ばかりをまっすぐに立ちのぼり、それから幸田当八氏の背中の上に流れた。地下室の温度は涼しい)
幸田氏は、
「すばらしい晩です。どうでした外の風に吹かれた気持ちは。そうです、多分、小野町子が失恋をしているのは僕です」
「僕は外の風に吹かれて、とても愉快です。いま、僕は、ほとんど女の子のことを忘れているくらいです。心臓が背のびしています。久しぶりに菱形になったようだ。幸田氏、それでどうなんです、僕たち三人の形は」
「トライアングルですな。三人のうち、どの二人も組になっていないトライアングル。土田九作、君は今夜住いに帰って、ふたたび詩人になれると思わないか」
「さっきから思っている。心理医者と一夜を送ると、やはり、僕の心臓はほぐれてしまった」
「そうとは限らないね。ここは地下室アントン。その爽やかな一夜なんだ」
(尾崎翠 「地下室アントンの一夜」昭和七年 八月)