声が低くてうつくしく、仕事ぶりが、みごとだった。
私がお客だったら、こういうふうな距離感で情報をさしだしてくれる店員さんにものすごく好感をもつにちがいないとおもった。
その声をきくとほんとうに落ち着く気持ちがする、その声をいろんな人にきかせてあげたほうがいいようにおもいます と伝えたら、
「これまで自分の声がとても嫌いだったしほめられたこともいちどもなかった。
きっとこのことをほめられるために私たち今日同じ日にはたらくことになったんだわ」
といって笑っていらした。
私たちが一緒にはたらくことは、多分このさきずっとないだろう。
あいさつして別れた。
遅くに帰宅し、テーブルの上に置いてある新聞の見出しをみて、がっくりした。
がっくりというのは、その事実についてというのはもちろんだけど、そういうことを新聞にかきたててアピールしなければならない人達の心情を想像してのことのほうが大きい。
しばらく、そのことについて自分の気持ちにちょうどいい言葉をさぐっていた。
私は、このことに関して、憤ってはいなくて、でも、「残念だ」と表現する程、はなれている感じでもない。
まだ国として変わる準備はできていないということなのかもしれない、
そして、準備のできていないなかに自分もふくまれているという意味なのかもしれない
などと思った。
しかし、確実にかわろうとしているひとがぐんと増えたんだとおもう、今年。
たとえば私の住んでいる家はオール電化で、そのことがとてもとてもいやだった。
もちろん罪悪感を感じていたし、すべてかえてしまいたいきもちにかられたりした。
だけど今は、そのことも、まだ縁のきれない自分の一部のようにとらえて、
それをもってしても、望む方向を選んでいくことかもしれないとおもう様になっている。
自分の身のまわりのことを変えるのだってそれなりの時間がかかるのだ。
たとえば、憤らないひとのことを憤るひともいる。
憤らないひとのことを憤るひとのきもちもわかる。
私もこれまで、ひととの関係においていろいろなことをためしてみて、失敗をとてもたくさんしたので。
この季節は、夜に雨の降る音のなかで百合のにおいがするのがきもちがいい。