年末年始のやすみのあいだにしたいと思い描いていることの、
ぜんぶができるだろうとは思っていないけど、
せめて、したいことのうちの一部だけでもいいから行動しようとおもう。
なんというか、この年は、重い鉛のはいったベルトと靴を装着させられたかのように、
こころとからだのうごかない年だった。
プールの中で走るよりもずっと遅くしか走れないで、
どんどんとエネルギーが果てていくような。
その感じがいちばんつよかったのは、
やはり、地震のおこったあの日からの日々。
地のなかへとエネルギーがどんどん飲み込まれて行くような、
重力がいつもよりもとても強く重い感じがして、
数日間、アトリエ部屋にいても、座ったままでうごけなかった。
同時に、自分の中からどんどんと、たまっていたいろいろなものが明るみに出てきたような感じもしている。
世の中でおこっていることも、そんなふうにみている。
まだまだ、わたしのなかには、出て行きたがっている膿みたいなものがある。
わたしはこれまで、そういうものを、出しちゃいけないんだとおもっていた。
あるとき、あるひとが、
「大地はね、そういうものを全部うけとりたがってるんだよ。
どうぶつのおかあさんが、うまれたこどものきたないものをぜんぶ舐めてきれいにしてあげるみたいにね」
っていうのをきいた。ちょっと涙がでた。
その話をきけたのも、今年のことだった。
子どものときから、
「人間は、地球をよごすことしかしないのに、どうして存在するんだろう。人間がいなくなれば、地球も宇宙もよごれないですむのに」と
わたしは思っていた。
いまは、
「どうして」かはうまく言えないけど、
存在をゆるされているんだな、とおもうようになった気がする。