2011年7月13日水曜日

7月12日

ここ1ヶ月くらい、かんがえていること。
じぶんが「ある考え」をまっとうだおもうなら、
ほかのひとが「その反対の考え」をまっとうだとおもうかもしれない、ってことも、想像がつく。
もしじぶんが、ほかのひとから、ある考えを押し売りされたら、
それはとても暴力的なことに感じられるだろう。
わたしは、もし、誰かにそういう形の暴力をふるわれたら、そこから逃げたり、そのひとを避けたりするだろう。

でも、暴力とはいえないほどの、一見そうとは思えないほどの何か、
暴力ではないけれど、もやもやとなにかを強制するコミュニケーションもあるなって思う。

たとえば、自分が感じている危機感を、ほかのひとにも感じて欲しいっていう気持ち。
根底にあるのは、じぶんや他人をまもりたいという気持ちだとおもう。
「このことを知らないひとを心配している。知ってほしい」という気持ち。
それは、だれのこころの中にもある。私のなかにもある。

その気持ちが、「自分はこんなにも危機感をもっているのに、他の人は同じようにはおもってくれない」というふうに傾いてくると、ちょっとあぶない気がする。
そのことについて、このところずっとかんがえていた。

今日ふっとおもったことは、
「他人を心配しているようにみえて、ほんとうは、『私は怖い。助けて欲しい』ということを言っているんじゃないかな」
ということ。

それは、だれのこころの中にもある。私のなかにもある。
そういう気持ちになってきたら、「あなたはあぶない」じゃなく「私はこわい。私はいやだ」と言うようにしてみようかとおもう。
というのが、とりあえず、今の時点での、しめくくり。
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